三日月は笑う・3

 

 

 セナは何故か、一晩中起きて事の真偽をはっきりさせることを避けていた。夢だと思うものの、それを信じきれないセナが、それらを明らかにするのは以外と簡単だ。一日、一晩中起きて、ヒル魔が入ってくる窓を観察しているだけで良い。

 けれどもセナはどうしても起きていることが出来なかった。

 心の奥底で、恐れているのだ。

 真夜中のヒル魔が、本当にセナの中だけの存在であるということを認めるのを………。

 セナは自分のその心の動きを、うまく説明することが出来無いでいた。

 しかし、セナはそれも今晩、判明するのではないかと思っている。

 今夜は月の光が及ばない新月だ。

 夢のヒル魔は何時でも月の光と共にセナの許を訪れている。セナは今日はヒル魔の夢を見ないのではないかと考えていた。

 そしてもし、今晩もヒル魔の夢を見たのなら、問い掛けようと決めた。

 セナは昼間の激しい練習に疲労の溜まった身体を柔らかい布団の上に横たえ、そっと目蓋を閉じた。暗闇は望む望まざるとも、あっという間にセナの意識を攫っていった。

 

 

「よお。セナ」

 果たして、セナはその声に目を覚ました。何時もなら月明かりでもう少し明るい室内は、電柱に付けられたオレンジ色の光線を放つ温熱灯の明かりが淡く入り込んでいるだけで、セナの虹彩ではその黒っぽいシルエットを捕らえるだけで精一杯だった。

「ヒル魔…さん………」

 黒いシルエットの中、鈍く琥珀色に光る髪の色に、ヒル魔の天を突くその髪は、自然の光の下でなければ黄金色には輝かないことを知る。

 セナは真夜中の逢瀬を繰り返すうちに、ヒル魔の今まで知らなかった身体的特徴を随分と知るようになった。それはほぼ、日光の下で観察したヒル魔の身体とあまり変わり無いことを既にセナは確信している。もちろん実際に触って確かめた訳ではないが、それでもセナはそう信じていた。

「ヒル魔さん、暗くてヒル魔さんがよく見えないんです。傍に………」

「俺がてめえの触れられない場所に居たことがあったか?これはてめえの夢だ。セナ、お前が望むのなら、俺はいくらでも傍らにいる」

 セナが伸ばした指先に、ヒル魔の指先がそっと触れたかと思うと、セナの小さな手は、あっと言う間に攫われてしまった。

「夢?………ヒル魔さん、僕、今晩は、この夢を見ないと思ってたんです。…夜空に月が見えないから、ヒル魔さんも見えないと思ってたんです。そしてそれは今も変わらない」

 セナの手を捕らえた指先に力が込められる。セナの華奢な骨格はその締め付けに僅かばかりかの悲鳴を上げる。たがセナはそれに怯むことは無い。今はそんなことよりも、ヒル魔の暖かな体温に集中していた。

 セナは、細く溜息を吐いた。

「……これが僕の夢だとしたら、ヒル魔さんは答えてくれるはずです。どうしてですか…?」

「まだ…判らないか?セナ………」

 ヒル魔はボソリと呟いた。それは満月の夜以来、初めてはっきりとした意識の下で、夜のヒル魔がセナに要求を求めてきた瞬間だった。

「判ら…ないです。なんで、ヒル魔さんは僕の許に訪れてくれるんですか?どうして、僕のやりたいようにさせてくれるんですか?…何故、僕に何かを求めているんですか?」

 ヒル魔の表情が見えない。いい加減、暗所に瞳孔が慣れてきても良さそうなのに、セナの瞳は一向に、ヒル魔の表情をセナには伝えてくれない。琥珀色の髪が仄かに明るい所為で、余計にその表情が伺えなかった。

 ヒル魔は、態とらしい怒りや笑いの表情をよく浮かべはするが、本質はポーカーフェイスを貫いている。夜、セナの許を訪れるヒル魔も、大概は無表情でその複雑な心の内を浮かべる事は無かったが、それでもセナは、今、ヒル魔の瞳が見られないことに酷く不安が煽られて仕方が無い。いつの間にか、鋭いヒル魔の眼差しは、入部当初の恐ろしい感情を呼び起こすものでは無く、セナの安堵感を生む一つの要素となっていた。

 そうだ。昼の光の許ですら、ヒル魔がセナを見る眼差しは、見守るもののそれだった。

 夜、セナの夢だと言うヒル魔はよく、セナの事をじっと黙って見つめていた。その視線も、見守る、それではなかっただろうか…………。

 今、月光の届かないセナの薄暗い部屋で、表情の見えないヒル魔と対峙して、漸くその瞳に込められた深い色が、ありありと実感出来た。だが、セナの手を襲う鈍い痛みは、それだけでは無いと、セナに訴えかけていた。

「何を、求めているんですか?」

「……………それは、自分で考えるんだな」

 ふわりと、セナの手から鈍い痛みが引いた。それとともに、温もりも、さっと夜の冷えた空気に溶けていってしまう。セナはとっさにヒル魔の黒い服に指先を伸ばしたが、それは触れる事すら叶わなかった。

 開きっぱなしの窓のサッシに手を掛けたヒル魔は、瞬間、セナの方を振り返った。

「俺に言えるのは、セナ、考える事を放棄するな。これだけだ」

「待っ……!」

 セナの制止の言葉を最後まで言わせず、ヒル魔は夜の闇にその身を踊らせた。

 ヒル魔が窓から外に出た瞬間、開いていた窓はぴしゃりと閉まってしまった。その閉まるガラスの隙間から、セナの耳には微かな声が届いたような気がした。

 その声はこう囁いていた。

 

 ───お休み、『糞チビ。』

 

 

 新月の夜から、既に三日目を数えようとしていた。やせ細り見えなくなっていた月は、徐々に細い猫の爪痕のような姿を夜空に浮かべている。やがてはまた、真ん丸な形に戻るのだろう。だがセナの感情は、月の様に繰り返す事は無く、様々な形へと変化していっている。

 セナはあれ以来、真夜中にセナの許を訪れるヒル魔の夢をぱたりと見なくなっていた。

 セナはあの夜、窓の外を確認しなかった。それどころか、自分の布団から出る事もしなかった。

 確認するのが怖いと言うよりも、それをしてはずるいのではないかとセナは思った。

 ヒル魔は考える事を放棄するなとセナに言った。考える前に確認してしまえば、放棄する事と同じではないかと感じた。だからセナはあの夜以来、窓の鍵も確認していない。

 セナはずうっと考えている。それこそ、夜に夢を見ている暇すら無い程。

 部活中、ヒル魔を伺ってしまうのを止められない。思わずヒル魔に答えを縋ってしまいそうになる。それでも、セナはぐっと両足を踏ん張って堪えた。最早理解しているからだ。

 答えは、自分の中にしか無い。全ての答えは、自分の中に在る筈なのだから。

 セナは些か寝不足気味な身体を引きずりながらも、何とかその日の朝練をこなした。

 

「ふぁ…あれ?」

 セナは重たい目蓋を擦りながら、ガランとした自分の教室を眺めた。授業中の筈の教室には生徒達の姿どころか、教師の姿までなかった。

(あ、そうか…今の時間は移動教室だっけ…)

 黒板の上に備え付けられた大きな文字盤の時計が示す時刻を見て、セナは己の置かれた状況を理解する。寝不足と激しい部活動により酷使されたセナの身体は、休息を要求していた。その欲求に負け、セナは居眠りをしてしまったらしい。そして今は、級友達に起こされる事も無く、そのまま次の時限をサボタージュしてしまった。

 もしかしたら誰かはセナの肩を揺すってくれたかもしれない。けれども限界を超えたセナの疲労がそれを気付かせなかったのだろう。

 今更、遅れて授業に出ようとする程の意識の明確さは、今のセナには持ち合わせていなかった。

 サワリと、セナの頬を柔らかく空気が撫でていく。校舎の大きな窓ガラスは開いているらしい。窓際の席をくじ引きで運良く引き当てたセナは、よくその感触を楽しんでいた。

 白い遮光カーテンが、ゆらゆらと翻っている。開いた窓からは、どこかのクラスが体育の授業なのだろう。僅かばかりの喧噪が漏れ聞こえてきていた。

 ひと際、激しく教室内に風が吹き込み白いカーテンが大きく教室内に翻り、慌ててまた窓の外に吐き出された。セナの視界を一瞬覆った白は、次には黄金色に取って代わっていた。

「よお。セナ」

「ヒル魔さん?!」

 これは、白昼夢だろうか?数瞬前までは、確かにこの教室にはセナ一人だけだった。ヒル魔は、コツコツと高い音を立て、一歩ずつゆっくりとセナの机に向かって歩を進める。セナはそんなヒル魔の姿を、まるで初めて満月と共にその姿を見た時のように呆然と見つめた。

 コツン。大きな音を残し、足音は止まった。セナが手を伸ばせば触れられる距離で止まったヒル魔は、じっとセナを見つめる。日の光の下で見るヒル魔の眼差しは、表面上の冷静さの奥に、鋭さと激しさが混ざっていた。まるで高熱の溶鉱炉の中を覗き込んでいるかの様だ。

 その視線がセナの身体を上から下までゆっくりと嬲るかの様に這わせられ、ちりちりと肌が粟立つ。

 たまらず、セナは震える吐息で溜息を吐いてしまう。ヒル魔の瞳の熱がセナの身体に移ったかの様に、体感温度が急上昇した。

 ヒル魔はそんなセナの様子をたっぷりと観察した後、漸く口を開いた。

「答えは判ったか?」

「あ…もう、少しなんです。ここまで、掴み掛かってる。けど、掴んだと思った瞬間に、それはするりと僕の手から逃げてしまう…もう少し、なんです」

「んだよ、相変わらずのうじうじ野郎だな、てめえは。仕方ねーから特別に、俺が手助けしてやるよ」

 そう言って、ヒル魔はスッと上体を屈めた。セナはただ黙って、ヒル魔の瞳を見つめ続けるだけだった。その瞳に絡めとられ、セナが視線を外す事は叶わなかった。

 ヒル魔は、最後まで、熱を奥に秘めた瞳を閉じなかった。目の前に広がったそれは近過ぎて、輪郭がぼやけている。それでも、その瞳に映った光は鋭く輝いていた。

 セナが何が行われているのかはっきりと認識する前に、その温もりはスッと離れていく。

「…これで判らないようじゃ、てめえは救いようの無い馬鹿だ。俺は、十分に待ったぜ」

 ニヤリ。ヒル魔はまるで今夜の三日月の様に唇を細め弧を浮かべた。

「俺は、もう待たねえよ、糞チビ」

 ヒル魔はその言葉をセナに落とし、鮮やかに身を翻した。

 セナは一言も発する事が出来ず、呆然としたまま、今己の身に起こった事を理解しようと必死だった。

 ガラララッ───ピシャン!

 教室の引き戸が大きな音を立て閉められたのに、びくんとセナの身体が飛び跳ねる。漸く金縛りが解けた身体に、セナは慌てて机から立ち上がった。

 ガタガタと耳障りな音を立て、椅子が倒れる。けれどもセナは最早そんな事には目もくれなかった。

 あの温もりが夢だなんて、ありえない!

 セナの唇に宿った温度は、身体に染み込み、そして寝起きで唐突に混乱に襲われた意識をハッキリとさせた。

 あの笑みを、もう逃がさない。セナはありったけの力を込めて言う事を聞かずにガクガク震える両足を叱咤した。

 漸く、ずっと知りたかった答えを得る事が出来た。

 セナが駆けていく先には、きっと三日月のような笑いを零す人がいる。セナは思いっきりその笑顔に打つけてやるのだ。セナの得た答えを。

 

「好きです。ヒル魔さん!」

 

 

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