目薬・4

 

 

 眼の下の色濃い隈。視線が合うととたんにキョドる身体。悪戯を仕掛けるのにはちっとばかり、早かったかも知れねぇ。たが、大概短気な俺が、よくここまで堪えたもんだと言う思いも少なからずある。

 

 

 

 昨日の放課後、俺とあいつだけが残った部室で、俺はあいつに仕掛けた。正確に言ってしまうと、なんにでも、緻密な計算と意図を絡ませるのが大得意な筈のこの俺が、衝動に身を任せ、仕出かしてしまったと言う方がしっくりくる。

 今まで、大脳新皮質が発達した筈の人類が太古からの小脳の欲望に負けるだなんて、一体どんな弱ぇー脳味噌してやがんだくらいにしか考えていなかったが、本能の底からくる身体の欲求は、恐ろしいほど御しがたかった。度重なる目薬を注すと言う行為に慣れてきていた糞チビの変化に、俺の理性はぎりぎりと絞られる悲鳴を上げていたのだ。

 まず、頬にそっと添えた俺の掌に、幼い線を画く頬が、しっくりと馴染む様になった。ガチガチに入っていた余計な力が抜け、薄く開かれる様になった目蓋の奥に、男にはまるで必要のない無駄に思えるほどキラキラと光を反射するでけぇ瞳。唇は相変わらずポカンと半開きで、きっと間抜けなこいつは開いている事すら気づいちゃいねぇんだろう。

 その薄く開いた唇から薄らと見える白い歯に、俺は幾度となく理性をそぎ落とされた。

 また俺自身が、目薬を注す事に早々に慣れてしまったのも拙かった。今の今まで暴れ回る糞チビ相手に、その作業に必死で見る余裕の出来なかったものが、己の思考が挟み込めるほどその行動が板につき、余計な所ばかりに視線がいくようになった。

 一つ一つ、ピンクの容器に入った薬液が少しずつ減っていくように、徐々に調べ上げ、小さな身体を包むものを剥いでいっている筈が、逆に俺の方がいつの間にか剥き出しにされてしまった。

 そんなつもりなど欠片も無いだろう、意図も糞も無い単純な糞チビの言葉は、そんな俺には脳内麻薬にしかならなかった。頭の芯まで痺れ渡り、口の中が薬臭ぇと言って顔を顰める糞チビに耐えかねて触れ合わせた唇は、極上の甘さを称えていた。それは、甘臭ぇもんが嫌いな筈の俺が夢中になるほど美味な代物だった。糞チビは何やらもがいている様子だったが、抵抗とも言えないような微かな指の動きに更に煽られて、口腔内を貪り尽くした。それだけでは物足りなく、その唾液すら啜った。

 唇を離すと、糞チビはポカンとした顔のまま、俺を凝視していた。そのあどけない表情とは裏腹に、俺に貪り尽くされた唇は紅く染まり、濡れて怪しく光を返していた。

 自分に何が起こったのか、理解していないのだろう。俺と口を合わせていた間、呼吸するのも忘れていたらしく、小さな肩が、忙しなく動いていた。その動きがどうしようもなく愛おしい。

 愛おしいだなんて感情、俺に存在していただなんて、欠片も認識していなかった。

 その肩を、両腕の中にしまい込みたくて、仕方ない。

 たった今、欲求に負けて行動に移してしまったと言うのに、次から次へと湧き出てくる欲望に、俺自身が酷く滑稽な生き物に思えて、しかもそんな自分が決して厭ではないと言う事実に、自然顔に笑みが浮かぶ。それは普段意識して作っている表情に似て、而して全く否なるものだった。

「言ったろ?テメエは身構えさせると駄目なんだ」

 違う。俺が、こいつに、身構えて欲しくなかったんだ。

 強張っていた身体が、徐々に手に馴染む様に弛緩していく様が至極心地よかった。それが、また固くなる様は、想像するだけでもあまり面白くない。

 途中、手渡した目薬を取り落としたらしい軽い落下音がしたが、その容器は俺の足下に転がっていた。

 呆然と動かない糞チビの変わりに、カジノ台の上にポツンと置かれた水色のポーチの中にそれをしまい込む。俺は既にそのポーチの中身を把握していた。絆創膏にハンドタオル、ティッシュ。胃腸薬に解熱剤等の常備薬が入ったピルケース。そんな中に、俺の歯形がガチガチに付いたピンク色の容器を落とし込む。

 初めて俺がその容器に触った時にはほぼ満杯に近い状態だったそれは、今や半分以下に減っていた。

 そうして、俺はそのまま部室を後にした。

 糞チビは、そんな俺の行動を凝視したまま、一言も言葉を発しなかった。

 俺はこの時確かに、動揺していた。悪魔よりも狡猾だと世間に言わしめるこの俺が、情けなくも敵前逃亡を図ったのだ。何よりも、あのまま同じ空間にいて、何もしないでいる自信がこっれっぱかしもねぇ。

 さすがの俺も、策も何も無く突っ込む程無謀じゃねぇ。が、それは只の自分のちっぽけなプライドに対する言い訳なんだと、心の何所かが囁いていた。

 しかし、賽は投げられた。投げたのが俺自身なのだから、ここまで来たら、腹を括るしか無い。

 

 一晩明け、俺の覚悟はしっかりと固まった。

 翌朝、朝練に顔を出した糞チビは、俺の予想通りガチガチに俺に対して身構えていた。

 ああ、だが、思った程その固さは不快ではない。

 そこには、俺に対する身構えはあったが、拒絶の固さは無いと、敏感に感じ取ったからか。

 策を弄すなんて偉そうに考えては見たが、恐らく、糞チビの前ではそんなもの、糞も役に立たねぇだろう。

 だが取り敢えず、俺がお前に今現在唯一出来る策。それを実行しよう。

 

 

 お前のでけぇ瞳に目薬を注してやる。

 

 

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