ひび割れた爪

 

 

 セナの指は、身体に合わせ小さく、手の平も大きくはない。流石に女の子のような細く滑らかな指とまでは言わないが、年頃の少年達よりは筋張ってはおらず関節もさほど目立たない。子供のような手だな…とはセナも自覚している所だった。

 そんな手を持つセナでも唯一、子供らしく無い部分があった。

 それは、指先にチョコンと付いた、爪だった。

 セナの爪は、透明な部分が人よりも長い。つまり、深爪は出来ないような形になっていた。縦に細長く、先は指の形に綺麗に合わせ弧を画いている。その綺麗な形と色は、まるで桜の花びらを思わせるようだ。

 まもりなど、よくセナの爪を見ては、綺麗な形ね。と言っては羨ましそうにしている。

 一方当のセナは、そんな自分の爪の形には一向に気にならず、むしろ、扱い辛い爪だとすら感じていた。

 同じ背格好のモン太は、長年球技に携わっていた所為か、手の平が大きく、指先も広い。必然、爪は横に大きく、縦に短い。爪先も弧を画いておらず、ほぼ扁平で、深爪してもなんら問題は無い。セナの爪でそこまで切ってしまうと、血が滲んできてしまうだろうと言う所まで、ざっくりと切っている。

 深爪出来ると、指を酷使する球技に携わっている者には、随分と楽になるのだ。

 何故なら、爪よりも指先の肉の方が出っ張っているので、球に爪を引っ掛けて割る危険性が減るからだ。

 セナは最近随分と爪にひびを入れてしまう機会が増えていた。グローブを嵌めていても指先で茶色いアーモンド型の重量があるボールを弾いてしまうと、即座に爪にひびが入る。否、グローブをして汗を掻き、湿って柔らかくなってしまった爪だからこそ、尚更割れ易くなっているのかもしれなかった。

 指先は、とても敏感な器官だ。ちょっとした傷でも、他の部位のものより随分と気に掛かる。ひびの入ってしまった爪は、そう言った意味で、酷く主張の激しい傷となる。ひびの入った部分を完全に剥いでしまえば、血は滲むし、もの凄い激痛が走るものの、2・3日我慢すればそれも気にならなくなる。しかし、ひびをひびのまま保とうとすると、常に違和感はあるし、鈍い痛みもある。不意に何かに引っ掛けやしないかとヒヤヒヤするし、心の準備も無しに引っ掛けてひびの範囲を広げてしまうと、想像以上の衝撃が走るのだ。

 忘れたくても忘れられない。意識を向けたくなくても気になってしまう。セナの爪先に走った小さなひびは、そんな厄介な代物だった。

 

 

 朝練終了後、セナが部室に入りロッカールームへ行こうとすると、その姿を見つけたまもりが慌てて制止の声を掛けて来た。

「あ、セナ、また爪噛んでる。ひびが入っちゃったの?こっちにおいで。応急処置してあげる」

 まもりのその有難い申し出にも、セナはギクリとしながらおどおどと断りの台詞を述べる。

「まもり姉ちゃん、い・いいよ。僕、今、爪の形を変える努力中なんだ。モン太の爪みたいに、透明な部分を減らしたい。だから、ひびが入っちゃったら、むしり取っちゃおうと思って」

 セナの最近出来た癖を、見つかってはいけない人に見られてしまった。己の迂闊さに、セナは内心溜息を零してしまう。

「そんな!せっかくの綺麗な形なのに!!それに、爪の形を変えたいからって、爪切りも使わずに歯でむしり取ろうなんて乱暴な真似しちゃ駄目よ。変な風に取れちゃったら、本当に何も出来なくなっちゃうわよ」

 まもりの的確でいて凄い剣幕に、セナは思わず首をすくめ縮こまってしまう。

 女の子の様に、己の爪の形を気にする習慣なんて無いセナは、横着にも爪切りを使わずに、ひびの出来てしまったその場で、ついついむしり取ってしまおうとする。しかしひびが入っているとは言え爪はそれなりに固いので、どうしても歯を当ててしまうのだ。そうなると、その動作をまもりが目敏く見つけては、この様なやり取りになってしまう。

 確かに、爪切りを使わないのは不味いと感じていたセナは、黙ってそのまもりの説教に耳を傾ける羽目になる。まもりの言葉はいつでも正論を含んでいるので、その中にまもり個人の要望が巧みに混ぜられていたとして、セナにはそれを簡単にはね除けてしまう事が出来ない。

「それにセナの爪、たとえ今はそれで透明な部分が減ったとしても、また直ぐに爪が伸びるのと一緒に透明な部分も増えるわよ?今までだって、さんざん爪を割って来たでしょう?それでも透明な部分は減らないんだもの。セナの爪はそう言う構造になっているのよ。下手な事はしないで、ね?私に手当をさせてちょうだい?」

 セナはぐっと痛い所を突かれたと感じた。確かに、セナの爪の形は、幼い頃から幾度となく割って来た割には少しも変わらない。今ここでセナが痛い思いをして爪を削ったとしても、恐らくまた直ぐに治ってしまうのだろう。と言う事は、痛い思いをするだけでセナの行為は全くの無駄になってしまう。

 まもりの申し出を断る要素が無くなってしまったセナは、素直にひび割れた爪をまもりの前に差し出すしかない。

 そこで強引にでも己の我を通してしまえない所が、セナがセナたる所以でもある。まもりはそんなセナの事もあって、言葉巧みに何かとセナの世話をやける様に誘導してしまうのだ。

「…お願いします。まもり姉ちゃん」

「じゃあ、そこの椅子に座ってね。今、私のポーチから爪ヤスリ持って来るから」

 軽快な足音を響かせ、まもりはカジノのカウンターの向こう側へと駆けていく。その何所か嬉しそうにすら見えるまもりの背に、セナは溜息を一つ零した。

 爪先のひび割れは、確かにセナにとって厄介者だったが、同時に、過去の、己の意思など何も無いセナとの決別の証でもあった。そのひびに煩わされながらも、セナは何所か、そのひびの存在を特別な現象として捉える様になっていた。

 ひびは、最近沸き上がって来るとある心境と酷く似通っていた。

 忘れたくても忘れられない。常に気のかかる。気構え無しに引っ掛けて拡げてしまうと、想像以上の衝撃が走る。

 その表現のどれもに、当てはまる現象が、ひび割れの他にセナにはあった。

 爪先にひびが出来る度に、セナはその心境までまざまざと思い起こしてしまう。それらに触れる事は今のセナにはまだ荷が勝ち過ぎて、だからこそそれらを再び心の奥底に仕舞い込もうと、一刻も早くひびを何とかしたくなるのだ。それが、爪を噛むと言う仕草の遠因のひとつに繋がっていた。

 そのひびを、長年の幼なじみでほとんど家族と言ってもいい様なまもりにすら、セナは弄っては欲しく無いと感じていた。

 しかし、いくらひびの入った爪を噛みちぎった所で、その爪と同様に、その心境を捨ててしまえる訳ではない。

 むしろ、傷口を自ら拡げた爪先の様に、その現象も強くセナの表面に現れてしまうかもしれない。

 些かの抵抗感を感じながらも、セナはポーチを片手に意気揚々と戻って来たまもりに、小さな手の甲を、差し向けるしか無かった。

 

 

 

「むきゃ?セナ、爪どうしたんだ?なんか妙に輝いてんな」

 昼休み。セナの教室で机を付き合わせてお弁当を食べていたモン太は、バナナを口一杯にほうばりながら目を丸くした。そんなモン太に、セナは複雑そうな顔をしながら言い難そうに答えた。

「あ〜…これ?今朝、まもり姉ちゃんが…」

 今朝、部室でセナの爪噛みを見咎めたまもりは、ひびの入ったセナの爪を丹念に爪ヤスリで擦り、何とかひびの部分を取り去った後、おもむろにポーチの中から小さな透明な小瓶を取り出した。

 キュルキュルと多少耳障りな音を立て、黒いキャップを取り外したまもりは、そのキャップにくっついていた細長い刷毛で、セナの爪をなぞり始めた。

 ツンと、シンナーの様な匂いがセナの鼻を掠める。

 まもりの唐突な行動に驚いたセナは、吃りながらもまもりの行動を止めようと声を上げた。

「ままま、まもり姉ちゃん何やってるの?それ、マニキュア?何で僕の爪にそんなもの塗る必要が…!」

「今、セナの爪削って薄くしちゃったでしょ?何時もより余計に薄くなって割れ易くなっているから、補強しているのよ。今セナの爪に塗っているマニキュアはトップコートって言ってね、本来なら色の着いたマニキュアを塗った後に、そのマニキュアが剥げてしまわない様に保護する為に塗るものなんだけれど、これ、透明だから、薄くなっちゃったセナの爪を補強するのに塗っても、余り目立たないかな、と思って」

「…そ・そう?」

 セナに流れる様に説明をしながらも、まもりの手の動きは止まる事無く、滑らかにセナの爪の上に透明な液体を塗り付けていく。問題のひびの入ってしまった爪を塗り終わると、まもりは刷毛を一回瓶に戻し、また取り出し今度は違う爪にまで塗り始めてしまう。そのまもりにセナは再び慌てた声を上げてしまう。

「まもり姉ちゃん?他の指に塗る必要は無いんじゃ?」

「予め、こうやって塗っておけば、ひびが入ってしまうのを防止する事も出来るわ。それに、一本だけ塗ってしまったら、その爪だけ目立っちゃうじゃない?流石にセナも男の子だからそれは恥ずかしいでしょう?こうやって全部に塗っておけば、一目じゃそんなに目立たないから」

「…そ・そう?」

 セナがそうやって戸惑っている間にまもりは滑る様に刷毛を動かし終わり、あれよあれよと言う間にセナの爪はテカテカにされてしまった。

「本当は、爪の表面をツルツルに磨いてから塗ったほうが、綺麗に塗れるんだけど…セナは綺麗にする為にマニキュアを付けている訳じゃないものね。残念だけど、今朝は時間もないし、これでお終い。このトップコート、残りも少ないしセナに上げるわ。それが剥げて来てしまったら、塗り足すといいと思う。本当は除光液を使って綺麗に取ってから、もう一回塗り直した方がいいんだけど…そこまで言ったら、セナは面倒くさがってやらないもんね。使ってね?そのマニキュア」

 そう言ってまもりはにっこりと笑い、セナの手に透明の小瓶を乗せた。まもりの笑顔の圧力に負け、セナはそれを受け取るしか無かった。

「…と言う訳で」

 ヘニャリと情けない笑みを浮かべたセナの机の上には、制服のジャケットのポケットから取り出した透明な小瓶。それの中身は、半分以下にまで減っていた。

 それを見たモン太は、うんうんと大きく頷いていた。

「まもりさんの言っている事に間違いはねーぜ。野球の投手もな、爪の保護の為に、マニキュア塗ってる。最近セナ、爪をよく噛んでたじゃねーか。素直に聞いといた方がいいぜ」

「そうかな?…でも、ちょっと可笑しく無いかな?」

「そうだよ。ま、俺は野手でそんな必要も無かったから、実際塗ってるとこ見掛けるだけだったけどな。でもまあ、セナにしてみれば、男がそんなもん爪に塗ってるのは違和感感じるかもしれねーけどよ。爪割って怪我するよか、マシだろ?」

「そう…だよね」

 セナは情けない表情のまま、己の爪を見つめた。無駄に形の良いそれは、桜色をして滑らかになっていて、余計にセナの理想の爪とは掛け離れて見えた。ひび割れとは違った意味で気になる。

 マニキュアを塗られていると、指先が何だか息苦しい様な詰まった様な感じがして、セナは人間って本当に皮膚呼吸もしているんだと、この時初めて実感していた。

 爪先の感覚は何だか膜を貼っているかの様で、つい、セナは己の爪を舐めて、感触を確かめてしまう。

 舌先にはつるりとした触感が感じられ、舐めた指を離すと、僅かに付いた唾液があっと言う間に乾いていく瞬間、気化で熱も奪って行く変化が、マニキュアを塗られている上からも伝わり、セナはほっとした。

 

 

「糞チビ、指見せろ」

 放課後練も終わり、外に設置された水飲み場の水道で頭から水を被っていたセナは、背後から不意に掛けられた声に飛び跳ねた。

 耳元で響く水音で、周囲の気配は全くかき消されていた。

 しかしセナが水を被っていなくとも、声を掛けて来た人物は、セナに気付かせず気配を殺して近づくなど、恐らくお手の物であろう。

「え?ヒル魔さん、指って?」

 ヒル魔のいきなりの要求に、セナは理解が追いつかず、キョトンと目を丸くする。水気を十分に吸い込んだセナの髪からはぽたぽたと水滴が落ち、セナの薄い肩の上に落ちる。白く柔らかい綿のTシャツはあっという間に水分を染み込ませ、ヘチャリとセナの肌に吸い付いた。

「いいからさっさと寄越せってーんだ」

 ヒル魔は長い足を大きく動かしあっという間にセナとの僅かな距離を縮めると、セナの左手を奪って行った。

 セナの手を持ち上げ、目線の高さまで上げると、ヒル魔は器用に片眉を上げてみせる。

「糞マネの仕業か。今日はてめえが爪噛んでねーから、おかしいと思ったぜ」

「!ヒル魔さん、知って…?」

「あん?そりゃ、あんなにしょっちゅう噛み付いてりゃな。目にも留まる。もうそろそろ注意しようとしてた所だ」

「そうですか…」

 セナは、ヒル魔の台詞に見事にへしゃげてしまう。己がアメフトをより良く行なう為にしていた行動は、やはり無謀だったようだ。確かに、横着はいけない事だった。

 実を言うと、今日の練習中にも幾度か爪を噛みそうになっていた。しかし爪を唇に運ぶ度に、爪に塗られたマニキュアのツルリとした冷たい独特の感触を感じ、噛む前に、はっとしてしまうのだ。最早無意識になっていたセナの行動が、今度はマニュキアの所為で意識される様になった。そうなると、練習中の間だけは一時忘れる事の出来ていたひびの存在を、より強く意識してしまう様になってしまったのだ。

 ふっと、ヒル魔の吐息が爪先にあたる。セナは、はっと俯け気味だった顔を上げた。

 微かな感触に、セナは唐突に、ある感情を強烈に呼び起こされてしまう。

 それは、忘れたくても忘れられない。常に気のかかる。気構え無しに引っ掛けて拡げてしまうと、想像以上の衝撃が走る。

 今まさに、セナは、ひび割れていたその感情の端っこを引っ掛けてしまった。

「糞マネは糞チビの世話、焼き過ぎだ…。随分念入りに塗ってやがる。これ、糞マネに塗ったくられたのか?」

 ヒル魔の問いかけに、セナは半ばその感覚に引きずられながらも、何とか答える。しかし、己が今、なんと喋っているのか、セナの脳裏には届いていなかった。それでも、口は機械的に言葉を紡ぐ。

「う…あ、はい。自分で出来るって言ったんですけど、時間もないし、私がやった方が早いからって。そのマニキュアの残りもくれました…」

 セナがそう答えた途端、ヒル魔は口の中で小さく舌打ちし、何事か呟いたが、セナの耳には届かなかった。

「そのマニキュアは捨てろ。んで、今度から、これ使え」

 ヒル魔の長い指がセナの前に突き出され、その指の間には小さな小瓶と中くらいの大きさの瓶が挟まれていた。

 それぞれの瓶のラベルと見るとそれは、新品のマニキュアと除光液だった。

「え?」

「言っただろうが。もうそろそろ止めるつもりだったと…糞マネも嫌にタイミングよすぎやがる。糞マネがやった安もん使うなよ。爪が荒れて余計に弱くなる。後、風呂の前にでも除光液使って、必ず落とせ。爪に呼吸させろ。じゃねえと爪が死ぬぞ」

「え・え・え?」

 セナがポカンとしている間に、ヒル魔はどんどん話を進めて行ってしまう。ヒル魔は、そんなセナには構わず、空いていたセナの右手にその瓶達を押し付けた。そしてふと、掴んで持ち上げたセナの指に視線を落とすと、それをじっと見つめる。

「なあ、知ってるか?どこのどいつが言い出したかは知らねーが、手は、身体の縮図なんだそうだ。てめえは今、俺に身体の何所かを同時に握られてる事になるんだぜ?」

 ヒル魔はニヤリと一つ笑みを零し、セナを睨みつける。

「その中でも、結構有名な奴がある。左手の薬指。心臓になるんだとよ。結婚指輪、左手の薬指に嵌めるよな。ありゃ、てめえの命を握るって言う意味なんだぜ。ある意味、神前で随分と悪魔的な契約だよな」

 そう言ってケケケ、と独特の笑い声を零すと、ヒル魔はセナの瞳を睨みつけたまま、握り締めたセナの指を口元に持って行き、そのまま薬指を口の中に含んでしまった。

「…っ?!」

 セナは驚き過ぎて、空気の塊を呑み込んでしまう。喉の奥で小さく、空気がひゅっと音を立て移動した。

 

 ガリリッ!

 

 指先に衝撃が走る。

 すかさずヒル魔はセナの指から唇を離し、ぺっと唾液と共に何かを地面に吐き出した。

 そして、仕上げとばかりにセナの爪の表面を舌先で舐め上げチュッと音を立て吸った。

「ほら、てめえの心臓が俺に喰われたぞ?どうする?糞チビ」

「ヒル…魔、さん………」

「俺以外の誰かに、この指を触らせるんじゃねえよ。糞ムカつく。今度触らせたら、皮剥ぐだけじゃ済まないと思え。喰われた心臓取り戻したかったら、そのマニキュア持って、俺んとこに来いよ」

 クククと喉を鳴らし、ヒル魔はセナの指を解放した。そして、そのままくるりとセナに背を向け歩き出してしまう。

 左手を取り戻したセナは、ヒル魔に噛まれた薬指を見つめる。

 そこには、いびつな形に抉られマニキュアの残骸がこびり付いた爪が、残されていた。

 

 ひびは、剥がれてしまった。

 

 ひびを作ったのはセナだったが、それを自分の力ではなく、ヒル魔に無理矢理剥がされてしまった。ひびの原因、その人に。

 

 開いてしまったひびは、元には戻らない。

 

 むしろ、セナは、このひびを剥いでしまう事を望んでいたのかもしれない。

 

 右手に握られた瓶を両手でしっかり持ち直し、セナは一歩を踏み出した。

 

 目の前から悠々と去って行った黄金色を追って。

 

 心臓を取り戻す為では無く、残された心臓も捧げる為に…………

 

 

 

 

戻る