.神の足に口付けを…3

 

 

 何処までも白い平原。雲の一片も無い深い青。

 セナは既にその空の色を、夢の中だけではなく、現実に見た事があった。

 それは、遠い異国の地にあった。

 外国など、始めて訪れたと言うのに、容赦の無い日差しが降り注ぐ中、目眩に顔を上向けた時、その空は存在していた。

 初めて見る筈のその色合いに、デジャ・ヴュを感じる自身に、その時セナはその空を、一体何処で見た事があるのか思い出せないでいたが、夢を見ている今、それをはっきりと思い出した。

 時々セナは、夢を夢だと認識出来る事がある。それが今だった。

 セナはある確信をもって、辺りを見回した。

 居た。セナはすぐさま、目的の人物を見つけ出す。

 何処までも広がる白と青のコントラストの中、今回も溶け込む事無く、その黒は存在していた。

 セナは、こんな広大な空間に独り置かれ、不安を感じていなかった理由を正しく理解した。

 心の何所かで、必ず、ヒル魔が側に居る…と確信していたからだ。それは、何の理由も無いセナの思い込みだったが、ヒル魔は何時でもセナの望みを実現してきていた。その力がある。

 セナが今回の地獄とも言える死の行進で心の拠り所にしていたのは、何時でもヒル魔だった。

 姿勢良くすっくと立ち、何時でも前を見据え続ける。そのヒル魔を拠り所にしていた。

 果たして夢の中のヒル魔は、白と青の中、背筋を伸ばし、立っていた。

「ヒル魔さん!」

 セナは何時かの夢の様に大声を上げる。そして何時かの夢の様にヒル魔に怒鳴られる前に、さっと駆け出した。

 ヒル魔は、何時でもセナの視線の先に居る。それは目標であり、拠り所にもなっていた。

 そしてヒル魔は、けして後ろに向かっては歩かない。何時も、前にだけ行進する。それでも、ヒル魔の姿がセナの視界から消える事は無い。何時も立ち止まって、セナが追いつくまで待っていてくれる。

 今回は、ヒル魔に届くだろうか。前は、ヒル魔の許に到着する前に、目が覚めてしまった。

 ヒル魔は黙ってセナが駆けてくるのを見つめている。

 どんどんと、ヒル魔の姿が大きくなっていった。

 そして、指先を精一杯伸ばす。ヒル魔の黒い服の胸に指先が触れた。と思った瞬間、セナはヒル魔の腕の中に居た。

「セナ!」

 

 

 パチリ。セナの目蓋は開いた。室内は薄暗く、外のネオンが薄らと白いカーテンを越し、届いていた。

 んごごごご、と誰かの鼾がシンと静まり返っていた部屋に響く。

 セナは無性に、ヒル魔に逢いたくて仕方が無かった。

 一つ、ハッキリとした事がある。夢で抱きしめられた瞬間、セナは理解していた。

 ヒル魔は、セナの拠り所だった。他の仲間達も互いに意地を張り合ったり、仲間意識を共感させ、恐ろしく厳しいこの道のりを乗り切った。

 だが、ヒル魔は?ヒル魔自身はどうだったろう。セナは何時もヒル魔の背中を見つめていた。

 ヒル魔は、何時でも、一人きりで立っていた。

 夢の様に、セナに寄りかかる事は一切無かった。それは当たり前の事だろう。

 だが、本当に、当たり前と言いきってしまっていいのだろうか?

 セナにとってヒル魔は、まるで神に近しい存在であったが、近いだけであって、けして神そのものではない。

 セナはどうしても確かめたかった。すし詰めのベットから抜け出し、セナはそっとホテルの廊下へと続く扉を開いた。

 

 

 

 ヒル魔は、夢を見ていた。

 死の行進を完走しきった部員達に止めの喝を入れ、己専用にとったホテルの一室に消え、そのままベットの上に倒れ込んだ。翌日起きたら、ベットはさぞかし汗臭い事になっているだろうが、今はそんな事気にしている余裕も無い。

 流石に今日は、夢を見る事も無く、深い眠りに就く事だろうと思っていたが、ヒル魔のその予想を裏切り、ヒル魔の身体は何時の間にかホテルのベットの上では無く、白い平原の上に居た。

 ポツンと立ち尽くすだけの夢に、ヒル魔は何の面白味も感じず、ふんっと鼻を鳴らしていた。

 どうせ見るなら、もっと意味のある夢を見たいものだ。

 だが、どう取り繕っても、ヒル魔の疲労は限界を超えていた。意味がある夢を選んでみられる程の余裕は、残っては居ないと言う事なのだろう。

「───ヒル魔さん…!」

 小さく、だが、確かに、声がした。その声に、ヒル魔は振り返る。振り返る前から、その声の持ち主には見当があった。

 距離の所為だけではなく小さな身体が、弾丸の様な勢いで、こちらに駆けて来る。

 その姿に、ヒル魔は目を細めた。

 前だけを向いて走るその姿は、ヒル魔には眩し過ぎた。

 そしてその姿に、雨の中、倒れた雪光を抱えたまま走り続けたセナを、ダブらせていた。

 セナは、決して自分一人だけでは走らない。何時でも、仲間達の思いを全て背負って、走る。

 それがどんなに重たいものでも、絶対に捨てずに走る。

 その足音を、ヒル魔は聞き続けていた。

 それは何時だったかの、放課後とも言えない夜に、セナの寝息を静かに聞き続けていた心境に、似ていた。

 この音を聞き続けられる距離に何時までも居たい。それは最早、祈りに近い感情だった。

 セナが、懸命に腕を伸ばす。

 触れるか触れないかで、ヒル魔は堪え切れずに少年を両腕の中に閉じ込めた。

「セナ!」

 

 

 息苦しい。うつ伏せのまま、随分と深く寝入ってしまったようだ。

 その間に見た夢は、己の願望を色濃く映した、実に下らないものだった。華奢な背を包み込んだ手の平の感触が、まだ残っているようだ。ヒル魔は見つめていた手の平を、ギュッと握り込む。

 コツン───…

 遠慮深気な物音が、ドアの方から聞こえて来た。一瞬気の所為かと思ったが、コツンコツンと、物音は続いた。

 言う事を聞かない重い身体を引きずって、ヒル魔はドアに向かって叫んだ。

「誰だ?」

『セナです。ヒル魔さん、起こしてすみません。お話ししたい事があるんです』

 ドア越しに聞こえるセナの声に、ヒル魔は正直動揺した。あんな夢を見た後で、セナに何もしないでいられる程、完成された人間ではなかった。それに今は著しく疲れ、理性の制御も怪しい。

 だが、セナの声色は、常とは違いきっぱりとしたものだった。余程、話したい事があるのだろう。

 その声に、無下に断る事も出来ず、ヒル魔は己の内に潜む逆らい難い欲求を噛み殺す覚悟を決め、ドアの鍵を開けた。

 ガチャリと薄く開いたドアの向こうに、ラスベガスに到着した時のままの格好のセナが居た。

「失礼します、ヒル魔さん」

 セナは、ヒル魔が室内に招き入れる前に、するりと細い身体をドアの隙間に捩じ込ませ、侵入して来た。

 そして素早くヒル魔の脇を通り過ぎると、ドアの前に立ち尽くしているヒル魔を振り返る。

「ヒル魔さん、こちらに来て、座って下さい。足を、見せてほしいんです」

 そう言ったセナの表情は、ラスベガスの賑々しいネオンの脚光に遮られ、うすぼんやりとしか、ヒル魔の夜目が利く筈の瞳孔でも、捉え切れなかった。

 ヒル魔は溜息を一つ、零す。

「俺の足を見て、それでどうするってーんだ。何も無い。どうもしねぇだろうが」

「ヒル魔さん。お願いです。何も無いんだったら、それを確認させてほしいんです。足を見せて下さい」

 セナは、臆病な所があるくせに、妙に頑固な一面もある。それをするのにどんなに恐ろしくても、一度こうだと決めてしまったら、実行するまでは梃子でも動かない。最近は、ますますそれに磨きがかかって来ている様に思えた。

 ヒル魔も己にそんな一面があるのを自覚している為、口八丁で誤摩化す事は出来ないと、判っている。

 ヒル魔は黙ってセナの前にあるベットに向かって歩き、それにドッカリと腰を下ろした。そして、黒いジャージのズボンの裾を上げる。

 その下から現れたヒル魔の足は、テーピングだらけで、膝には炎症の腫れがまだ、くっきりと残っていた。

「………ヒル魔さんが何時だったか言っていた、それが必要な時って、この事だったんですね。僕は、この行進をしている間ずっと、何度も心が折れかけました。その度に、ヒル魔さんの普段と変わらない姿を見て、心を奮い立たせてました。他の皆だってそうです。誰かの意地を張る姿を見て、自分も意地を張ってみたり、辛いのは自分だけじゃないって励まし合ったり、ヒル魔さんの平気そうな姿を見て、勇気づけられたり…ヒル魔さんは、何時でも、皆を何も言わずに引っ張ってくれますね。僕にとって、ヒル魔さんは、まるで神様みたいだ。でも、忘れちゃいけなかったんだ」

 セナはヒル魔の目の前に跪き、そっとヒル魔の剥き出しになったボロボロの膝に指を触れさせた。

「ヒル魔さんは神様じゃない。ヒル魔さんは、ヒル魔さんだ。僕と同じ、人間だ。なのに、僕は、それに気が付けなかった。ヒル魔さんはこの行進中、ずっと独りだったんですか?誰にも頼らずに、ずっと独りで走り続けていたんですか?何処にも、心の拠り所が無かったんですか?…………仲間なのに、終わった今、それに気が付くなんて、僕は本当に間抜けです。ヒル魔さん、ありがとう。僕たちの心の拠り所になってくれて。そして、ごめんなさい。僕ばっかり支えてもらって。僕は、ヒル魔さんを支えてあげられなかった。僕は今、それが本当に悔しいです」

 ポツ・ポツリと、ヒル魔の膝の上に暖かな雫が落ちて来た。ヒル魔はその感触に、抑え切れない愛おしさを感じる。

 セナの言っている事を聞いていると、ヒル魔まで│││泥門の悪魔と恐れられ、ヒル魔をただの人間だとは思わない輩が多い中、そんなヒル魔まで、セナは背負って走ろうとしている。

 セナが指摘した通り、ヒル魔は他人に頼ると言う事を知らなかった。だが、それも、ヒル魔を思って涙を零すこの少年に出会うまでの話だ。

 ヒル魔はそっとセナの頬に親指を添え、暖かい雫を払った。

「何を泣く?セナ、一つ、教えてやる。俺が死の行軍中ずっと聞いていた音はな、てめえが後ろから石ころ蹴りながら駆けて来る、足音だ。俺がどんなに銃声響かせようが、怒号を張り上げようが、その音は掻き消されねぇで俺の耳にずっと届いていた。それがどういう事か、判るか?」

「ヒル魔さん…」

「俺は、神に祈った事何ざ、一遍も無い。だがな、俺はずっとその音を聞き続けたいと、初めて祈ったんだぜ。セナ、てめえにだ」

「ヒル魔さん…!」

 セナは溢れる涙が止められないようだった。しきりにしゃくり上げ、ボタボタと大粒の雫を零し続ける。

 ヒル魔はそんなセナを抱え上げ、ベットの上に落とした。

「俺が祈るのは、セナ、てめえだけだ」

 そう言って、ヒル魔はセナの足を手の平で包み込み、足の甲にそっと口付けを落した。

 セナの足は、すっぽりとヒル魔の長い指の中に納まってしまう。

 ヒル魔の唐突な行動に、止まる事は無いと思われたセナの涙は、ピタリと止んでいた。

 セナのキョトンと見開かれた幼い顔を見て、ヒル魔は苦笑を一つ零すと、ベットに転がったセナの上に覆い被さる。そして顔を寄せ、その薄く開かれた唇に、己の唇をくっつける。

 触れ合わせるだけのそれは、触れた時と同様に、そっと離れて行った。

「その音が聞こえなくなった時、俺がどんなに慌てたか、てめえにゃ想像つかねえだろうな」

「あ…その節は、どうもすみませんでした」

 まだ驚いているらしいセナは、どうにも間の抜けた返答を返した。

 ヒル魔は、セナを寝かせた横に身を沈み込ませると、セナの身体の上に右腕を置き、その手で癖が強い髪を梳かしながら囁いた。

「今晩はもう寝ろ。秋大会はもう始まってる。死の行進を完走したからって、これが終着じゃねぇ。少しでも体力を付けるにゃ、休息も重要だ。俺も、もう寝る」

 そのまま小さな身体を抱き込み、ヒル魔は急速に睡眠へと、意識を呑み込ませて行った。

 

 

「ええと…今のって?え?」

 すうすうと、微かな吐息がセナの耳をくすぐる。ヒル魔はどうやら、本当に眠りについてしまったらしかった。

 ヒル魔との会話思い返し、セナが第一に感じた事は、慌てるヒル魔さんって想像つかないなぁと言う、何処までもピントのずれた事だった。

 セナを包み込む熱は、行進に疲れた身体には、有難く無い接触な筈だった。けれども今はその熱がとても心地良い。

 セナは、この温度に身覚えがあった。

 それは何時の日だったか、セナの両足を包み込んだ熱に、とてもよく似通っていた。

 ヒル魔の穏やかな寝息を数えながら、セナは何時しかとても落ち着いた気持ちになっていた。

 考えるのは、明日でもいいか…段々と眠くなってきた思考で大雑把にも、セナはそんな事を思う。

 何よりも、ヒル魔との接触は、嫌なものではなかった。それどころか、心の底がくすぐったい様な、とても幸せな気持ちになる。

 それが判っているのなら、答えもすぐそこに、あるだろう。

 今は何よりも、ヒル魔の支えになれていた、その事実が凄く嬉しい。

 半分眠りかけていた思考で、セナはあっと気が付いた。

 寝ぼけ眼でもぞもぞとヒル魔の腕の下から抜け出し、ジャージの裾がめくれあがったたままになり、むき出しになっていたヒル魔の膝に、チュッと唇を寄せる。

「ボロボロになっても最後まで壊れずに、ヒル魔さんを走らせてくれてありがとうございました」

 ヒル魔のテーピングだらけの足にそう囁き、パタパタとセナを探しているらしい動きを見せるヒル魔の腕の下に戻ると、そのままストンと眠りについた。

 

 翌日、割り当てられた部屋にセナが居ない事に気が付いたまもりが、スペアキーを使いヒル魔の部屋に乗り込んでくるまで、二人は身を寄せ合って、ぐっすりと眠ったのだ。

 二人がまた、あの青と白の夢を揃って見たのかどうかは、神のみぞ知る…と言うやつだ。

 

 

 

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既刊『神の足に口付けを…』より掲載