風邪薬
身体が重く、意識もはっきりしない。セナは思うようにならない目蓋をなんとか開こうともがいた。 けれど夢の中で目覚めようとしているかのように、セナがどんなに頑張っても接着剤でくっつけた様に目蓋は開いてくれない。
今、何時なんだろうな…
途切れ途切れの思考で、セナはそう思う。身体は熱く煩わしい倦怠感がまとわりつき、寝返りを打つ事すら気だるくて、セナはとうとう目を覚まし時刻を確認する事をあきらめた。
喉、渇いたノ関節痛いなぁノ。あ、今しっかり起きたら、きっと気持ち悪いだろうなぁ… でも、起きたい…起きて、走りたい…皆と一緒にフィールドで走りたい…
その感情は、セナの過去から考えれば、想像も付かないものだ。 学校では親しい人物もなく、セナは空気のような存在だった。周囲にそう思われている事を自覚していたセナは、本気で自分の身体が空気ではないだろうかと思っていた時期もあった。その所為か、周囲と積極的に交流を育む事もなく、唯一名前が呼ばれることがあると思えば、それは誰かの使い走りだったりした。 そんなセナが風邪を引けば、学校を堂々と休める口実が出来たと、怠い身体を引き摺りながらも喜んでいたと言うのに、今ではその風邪を退屈に思うようにまでなった。 それどころか、思うようにならない身体が焦れったい。今直ぐにでも飛び起きて、走りだしてしまいたい。
はぁ…
熱く湿気の籠もった溜息を付く。呼吸一つとっても、重苦しく酷く疲れる。
走りたいなぁ…
───んだよ、てめえ、おとなしく寝てやがれっつーんだよ。そんなんじゃいつまで経っても治んねーぞ。
セナの心の声に、乱暴な口調の返事が返ってくる。何だか誰かを彷彿とさせるその口調に、熱が高く具合が悪いと言うのに、こんな時ですら想像力が以外と豊かな自分の思考に苦笑が漏れる。セナは思わずその声に、まるで会話を交わすかのように応えていた。
でも、もう寝ているのも飽きちゃいました。走りたい…皆と走りたいです。
───治ったら、幾らでも走らせてやるよ。だから今はおとなしくしてろ。
それは分かってるんです。けど、でも、じっとしてられないです。僕がこうやって寝込んでいる間に、他の人達は、何倍にも成長してるんだから…
───んなの、人と較べてどうするってーんだよ。てめえはてめえだろうが。何か?自分が最強無敵な超人だとでも勘違いしてんのか?
…そうですね。勘違いしたいのかもしれません。僕は、ヒーローになりたい。
───ヒーローになってどうすんだよ。弱ぇー自分がそんなに嫌いか?
嫌いって言うよりも、もどかしいです。僕は僕でしかないけれど、変われないって訳じゃないんだって教えて貰ったのに、身体はなかなか追い付かない…
───なんでそんなにヒーローになりたいんだよ?
僕は、大切な事を教えてくれた人に、何も返してあげられない。でもせめて、その人のヒーローになれたらって思うんです。僕の足にはその可能性があるんだって教えてくれたんです。………誰もが僕の事を空気だと思っていたのに、その人は、違うと示してくれました。誰もが信じない僕を、信じてくれました。誰も…誰もが想像つかないような、僕の存在理由を見つけ出してくれました。それを、言葉の上だけのものじゃ無いんだって、実証したい。だから、僕は、その人のヒーローになりたい。
───てめえはそいつの為だけに走んのか?そんな理由で走るのか?
いけませんか?僕は、皆の英雄よりも、その人のヒーローになりたい。それが、僕が僕である証拠にもつながるから。
僕は、ヒル魔さんの、ヒーローになりたい。
───…『英雄』なんてもんはな、認めてくれるその他大勢がいなきゃ成れねーが、『誰かのヒーロー』なんてもんは、そいつ一人が認めりゃ簡単に成れんだよ。随分垣根の低い目標だな、そりゃ。
そうですか?そうでもないような気がするけどノだって、ヒル魔さんは、僕よりよっぽどヒーローだし……
───………。でもまあ、悪かねーな。バカらしい理由だが、悪くはない。ヒーローになんだろ?だったらさっさと糞風邪菌なんてぶっ殺して復活しろよ。
はい…。
───で、この薬はどうしたんだ?食間に服用三錠…きっちり残ってんじゃねえか。治す気あんのかてめー。走りたいだなんて譫言いっておとなしくしねーわ、布団ははね飛ばしてるわ…
あ…くすり、忘れてた………
セナはそこで漸く起き上がろうと再びもがいた。どうしてすんなり眠ってしまわなかったのか、その理由が、恐らく思考の何所かに引っかかっていたのであろう薬の服用だったのだと納得したからだ。けれども体調の悪いセナの目蓋はやはり、思う様には開いてくれない。 セナがそうやって何とか起きようと努力していると、不意に呼吸が苦しくなった。冷たく柔らかい何かがセナの唇を覆っていた。 その中から、熱くぬるりとした感触の何かに唇をなぞられ、とっさに薄く開いてしまう。 その瞬間、冷たい液体と、小さな固形物がセナの口腔内に入り込んで来た。 セナはひたすら吃驚して、それでも、何とか、気管に入れてしまわない様にと、それらを呑み込んだ。 セナがそれらを完璧に嚥下するまで、熱い何かは、セナの口腔内に居座り、何とかセナが飲み下すと、セナの口腔内を探る様に一蠢きした後するりと離れて行った。熱くぬめっていたそれがセナの口腔内に居座っていた所為で、水分を呑み込み辛かったセナは、幾分液体を気管入れてしまい、こほりと咳き込んでしまう。 声は、そんなセナにはお構い無しに、厚顔そうに言い切った。
───てめえ、今、自分が風邪引いていた事に感謝するんだな。治ったら、これぐらいじゃ勘弁してやらねえから、覚悟してろよ。
なんだかそれは、妙に楽し気な声色だった。 セナは、ここで漸く、この声は本当に己の妄想の産物なのだろうか?と言う疑問にぶち当たる。 しかし、判断力は全て、熱が奪い去っていた。
───薬はキチンと呑めよ?あちいからって掛け布団蹴飛ばすな。肩まで掛けろ。んで、無闇に起きんな。早くノ数秒でも早く、よくなれよ。てめえは、俺のヒーローなんだろ?しっかりしろよ………
しっかりしろ…その言葉を最後に、セナの意識は完全に沈み込んでいた。だが、何故だか、先程まで感じていたもどかしさは、綺麗さっぱりと消えていた。眠る事に既に飽きていた筈のセナだが、その感覚は、セナに深い睡眠を与えてくれた。
パチリ
セナの目蓋は勢いよく開いた。それは先程、時刻を確認しようとした時、あんなに開ける事が難しかったなどとは欠片も感じさせない程、すっきりとした目覚めだった。 カーテンの閉められていない窓の外は、真っ暗だ。 勿論、蛍光灯の点されていないセナの部屋も真っ暗だった。 上半身を起き上がらせたセナは、その拍子にはらりと落ちた布の塊に、珍しく、己が掛け布団をはね除けずに眠っていた事に気が付いた。枕元に置かれた卓上照明の電源に指先を伸ばす。 パチリと点いたそれは、蛍光灯よりは弱々しい光の筈が、暗闇に慣れ切ったセナの虹彩を焼いた。 目蓋をしょぼしょぼとさせながら、何とかその光に瞳孔を慣らそうとする。そうしている間に、セナの身体は空腹を訴え始めた。どうやら、体調はかなり回復しているらしかった。
目蓋を擦りながら、枕元に置かれた目覚まし時計を見ようと視線を走らせ、セナの動作はピタリと止んだ。 枕元の卓上照明に照らされた其所には、カッラポになったミネラルウォーターのペットボトルと、薬の入っていたらしい銀の包装が解かれた屑が残されたいた。 一気に、色んな記憶が甦ってくる。
あれは、夢だったのだろうか…?それとも…?
セナは暫く布団の上で一人赤くなったり慌てたりしながら、漸く、一息吐いた。 沢山食べて、沢山眠って、そして、一分一秒でも早く、風邪を治そう。
ヒーローになる為に。
セナのその決意はきっと、何よりも良い薬になるだろう。
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