そう言うときは、笑っとけ!!

 

 

 人間ってさ、自分の能力では追いつかない事態に陥ると、最終的に『それ』しか無いんだよな…

 

 それはある日、唐突に起こった。

「うっひゃあ?!」

 俺の隣でただ黙々と、疲れた動作でのそのそとYシャツの袖に腕を通していたセナが、急に突拍子の無い声を上げた。激しい放課後練の疲れで半分眠ったままの意識で、ドロドロになったジャージをスポーツバックの中にぐしゃぐしゃに丸めて突っ込んでいた俺は、文字通り、その声に飛び上がって驚いた。その体の大きさに見合ってか、何処か小動物めいているこの親友が、こうやって悲鳴を上げる事は少なくは無いが、普段通りの日常の一コマで、悲鳴を上げる様な要素が何一つ見当たらない状況で不意をつかれると、やはり焦ってしまうものだ。

「何だ?どうした?何があっ………」

 俺は慌てた声を出しながらセナの方に振り向き、そして最後まで心配の台詞を続ける事が出来ずに硬直してしまう。

 確かにそりゃ、うっひゃあ、だよ…。

 内心でそう呟きながら、目も口も最大限に開け、目の前で展開している非日常的な光景に見入ってしまう。

「うあ、いっいた、いたいです、ヒル魔さ…!」

 ガジガジと、音が聞こえて来そうな程あからさまに、セナの項に噛み付いているヒル魔先輩の姿が、そこにはあった。

 鋭い犬歯がセナの日に焼けない首筋にずっぷりと食い込んでいる。泥門の悪魔と一般生徒どころか教師連にまで恐れられているこの人は、その悪魔的な知能と情報網を駆使してその名を欲しいままに頂いているが、その外見もまた、どうしてだか悪魔然としているのだ。細くつり上がった眦、特殊メイクかと見紛わんばかりの尖った耳先。そして悪魔的な笑みに歪められた唇の下から覗く歯は、どれも見事に鋭いのだ。クォーターバックを務めるのには相応しい長い指が、今はセナの顎の下に添えられて、セナが逃げられない様にしっかりと押さえつけていた。

 セナはこの年代の平均的な男子に比べ、身体的に随分と華奢な作りをしている。多分骨が細いのだろう。アメフトを始め筋肉がついて来たとは言え、その細さはまだまだ目立つ。自然、長い指では、あっさりとセナの細い首を鷲掴み出来てしまうのだ。

 他人に滅多に触られる事の無い項に喰いつかれ、本気で痛そうに身を捩るセナだが、首から上は頑として動かない。

 どんだけ強い力で押さえればそうなるんだ…と妙に感心しつつも、俺はハッと気が付いた。

「ヒル魔先輩!セナの首絞まっちまうっすよ!」

「んあ?」

 俺の指摘に、不服そうにセナの首筋から歯を外したヒル魔先輩は、少しの間考える様子を見せ、セナの顎の下に回していた指を外し、そしてセナの項を最後の一噛みと言わんばかりにガプリとやってから、漸く哀れな小動物を解放した。

「いぃ?!」

 最後の一噛みが余程効いたのか、セナは童顔の大きな瞳に目一杯涙を溜め、身を縮込ませて硬直した。その横で、フンと鼻息を洩らしたヒル魔先輩は何故か偉そうにふんぞり返っている。

 悪魔と哀れな生け贄の様子に、俺同様固まって居たアメフト部の仲間が漸く時間を取り戻し始める。

「おい、ヒル魔っ……先輩!セナに何やってるんだよ!?」

 まず始めにハァハァ三兄弟の長男…もとい十文字がヒル魔先輩に食って掛かる。意外といい奴だな、十文字。

「ガムが切れたんだよ」

 十文字の剣幕も何のその、ヒル魔先輩は究極なマイペースでしらっとそんな事を言う。確かにヒル魔先輩は何くれと無くガムを噛んでいる事が多い。だからと言って、ガムが切れたからって、それがどうして人の首に噛み付く事に繋がるのだろうか?

「へ?えーと、ヒル魔?」

 その場に流れた微妙な空気を感じとってか、栗田先輩が、ヒル魔先輩の台詞をもっと引き出そうと促す。

「こいつが、餅見てーな生っ白い首してんのが悪ぃんだよ」

 それって、セナの首が白くて餅みたいだから、感触もそれなのかどうか確かめる為に噛み付いたという事なのだろうか?そして、先程のガムが切れた発言も組むと、その口寂しさをセナの首で代用しようとしたと?

 それって、それって、どうなんだ…と思いつつ、呆然としたセナの表情を見て、俺は発言を控える事にした。他の仲間達もヒル魔先輩の発言をどう思ったのか、十人十色な表情をしながらも、気の毒なセナの顔を見て、そっと目を逸らすだけだった。

 ヒル魔先輩は言いたい事だけ言い終わると、ふらっとロッカールームを後にした。俺は何となく、あーもしかしてコンビニにガムでも買いに行ったのかな…と閃いた。しかし、それなら、セナの首に噛み付く前にコンビニに行ってれば良かったんじゃないか…と言う思いが過らないでも無いが、そんな発言を零す程、迂闊じゃない。

 ちらりとセナの首筋に視線を走らせると、そこには無惨にも、くっきりと幾つもついた歯形が残っている。この痕は恐らく一週間は消える事はあるまい。

「ねえ、モン太……僕、首、焼いた方がいいのかなぁ?」

 硬直が漸く解けたらしいセナは、酷く真剣な表情をして、俺に尋ねて来た。

 しかし俺はそんなセナに言うべき言葉が見つからず、グッと詰まってしまう。

 何しろセナは焼けない質らしい上に、主要な練習中はほぼアイシールド付きのメットを被っていて、首筋に日の光は当たり難い。

 途方に暮れた様子の親友に、俺は、ぐっとその小さな両肩を掴んで、ただ一つ、今言える精一杯を返した。

 

「セナ、人間、笑ってれば何とかなるもんだ………!」

 

 

 

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