回覧板

 

 

 

「…なんだこれ?」

 ソファーの前の机の上に、緑色の用箋挟が置かれていた。紙の挟み込まれた板を裏返してみると、そこには金の箔押しも眩しく『回覧板』の文字が刻まれている。

 銀時には、町内会に属した記憶が無い。ご近所付き合いなんて面倒くせぇとは表向きの口実で、実状を言うと、町内会費を払う金にも事欠く毎日を送っているというしょっぱい懐事情からなのだった。なので今まで万事屋銀ちゃんに回覧板が回ってきた事は無い。

 無いのに銀時の目の前にあるのは間違いなく、回覧板そのものだった。

 銀時がしげしげと手の中にある板を眺め回していると、和室の方からパタパタと軽い足音が近付いてきて、あれ? と小さな呟きが聞こえてきた。

「ここに置いておいたのにな〜」

「探してんのはコレか?」

 傍らに立っている家主には目もくれず、ソファーの背もたれに手をやりキョトキョトと机の上を探している旋毛に向かって、銀時は手にしたものを振り落とす。パコンと軽い音だったが衝撃に驚いたのか、頭一つ分銀時より小さい少年は大きな瞳を更に丸くしてこちらを見上げた。

「って、何すんですか」

 次に瞬間には鼻の頭に皺を寄せ、煩そうに銀時の腕を払い落とす。眼鏡のレンズの奥に大きな瞳を隠して、口をへの字に曲げて不快感を表す少年に、銀時は振り払われた手を目の前に持ち上げて、逆に少年に向かって問い掛けた。

「こっちのが聞きてーよ。何で家にこんなモンがあるんだ?」

「こんなモンって、回覧板じゃないですか。それのどこが不思議なんです?」

「どこって…」

 銀時は口ごもるしか無い。

 万事屋が町内会に属していない事を言うにしたって、少年の今までの様子を顧みるに、更に不思議がられるに違いない。その情けない実状を暴露するにしたって、銀時にも多少なりとも見栄と言うものがまだ存在していた。

 

 

 一週間前に、縁あって万事屋に転がり込んできた少年の向ける瞳は、今まで銀時が受けた事の無い真っ直ぐさと、こちらが思わずどうして、と聞きたくなってしまう程の信頼が底の方に伺える。

 そんな視線を受けるに相応しい人間ではない事は、銀時自身が一番よく知っていた。ここで働かせてくれと言って引かない少年も、仕事らしい仕事も無く日長一日のんべんだらりとやる気無く、ソファーに寝転がりジャンプのページを繰る駄目な大人の姿に現実を知り、そのうちそんな瞳を向ける事も無くなり、ここを去るだろうと考えていたが、まだその気配は一向に伺えない。

 それどころか、万事屋内は銀時一人が暮らしていた時とは雲泥の差で、床にはゴミ一つ落ちてはおらず、明るい日差しが室内を照らし、ベランダには生活感溢れる洗濯物まで干されるようになった。

 朝になれば白米の炊ける腹の減る匂いで起こされ、歯を磨きに洗面台の前に立てば、いつの間に増えたのやら真新しい下ろしたての歯ブラシとコップが出迎える。寝ぼけ眼でソファーに座れば、すかさず茶碗山盛りに白米がよそわれ、少年も向かいに座して食べ始めるのだ。

 給料は払えないよと言う銀時に、怯む事も無くじゃあ現品で貰いますと返した少年は、万事屋でご飯を食べていく。銀時と共に、朝昼晩と。まるで一緒に暮らしている家族のように…

 食卓を誰かと共にするなど、何年ぶりの事だか思い出すのも難しい。

 イチゴ牛乳が飲みたくて開けた冷蔵庫の中身が、以前とは違い甘い物と酒だけの保管庫では無くなっていた事実に、急に養わなければいけない子供が出来たような心境が生まれ、らしくも無く、少しくらい真面目になってみてもいいかな? などと思い始めていた矢先であった。

 

 依頼が無く金も無い事は銀時も明言して居り、宣告通りまともな仕事が一つも無い状況に、万事屋の家計が火の車なのは少年も重々承知してはいるだろうが、まさか半年に一度の、それも微々たる金額の町内会費を支払う能力も無いとは夢にも思うまい。

 洗いざらい打ち明けるにしては、余りにも情けない金銭事情に、銀時が口ごもるのも仕方あるまい。それがいくら自業自得だとしても。

 

 

「読まないなら渡して下さい。次のお宅に回さなきゃ」

「なー、これ、どこから回ってきたんだよ」

「どこからって、お登勢さんからですよ。ああ、そう言えば、坂田さんとこには回覧板回ってなかったんでしたっけ? あんた一人じゃ面倒臭がって止めそうだけど僕が居るならって、渡される時言われましたよ。それであんなにしげしげと眺め回してたんですね」

 お登勢と言う名前が少年の口から出た事に、銀時は少なからず驚いた。確かに万事屋銀ちゃんが居を構えているのはスナックお登勢の上だが、もう既に交流があるとは思ってもいなかった。

 少年は、驚くべき速さでこの万事屋に馴染み始めている。一年勤めたバイト先で、レジ打ちが出来ない程浮いていたとはとても思えない。

 何時の間にか増えている水切りカゴの中の食器や、ベランダにはためく洗濯物、少年の細々とした私物、玄関のブーツの横にあるやや小振りな草履を思い出し、それらに違和感無く一週間を過ごしてしまった事に、今更ながらに気が付かされる。

 周りの環境だけでなく銀時自身も、この少年を何の抵抗も無く受け入れ始めている事に不意に気が付かされ、妙に心の奥底がむず痒いような心境に見舞われた。口の端がむにむにする。気を抜くと、表情が崩れてしまいそうで堪らない。

 

 誰に向かってと言う訳でもなく、むしろ自分自身を誤摩化す為に、悪態を吐いて、もぞもぞする口元を治める。

「んだよ、ババアめ余計な事しやがって…」

「大丈夫です。会費はちゃんと渡された生活費の中からやり繰りするつもりですから。事後承諾になってしまってすみませんけど、これに万事屋の情報を乗っけてもらったら、少しは宣伝になっていいかとも思ったんで。ご近所付き合いをないがしろにしちゃ駄目ですよ」

 銀時は内心舌を巻いた。少年は、銀時が町内会に属していない事に気が付いており、その理由もお見通しだったのだ。

 

 

 生来からのなまくらで、細かい事はとんと面倒臭がる質なので、少年には銀時の懐から数少ない札を渡し、これで必要なものはすべてすませろと言い置いておいた。

 後はご勝手にどーぞと、初っぱなから突き放したような銀時の態度に、少年は暫し考え込み、万事屋内を隅から隅までぐるりと見回し、そして力強く頷いた。

 果たして少年は、僅か二日足らずで見事に、一人暮らしの男のゴミ溜と化していた万事屋内を事務所としての体裁を整え、家計を回し始めたのだった。

 渡した札は自分が自由に出来る金を余分に残してだったので、それで家計と事務所の維持をしろとは些か意地が悪かったかもしれない。少年の、現実以上に思える銀時への高い評価を、早々に身の丈の合ったものに落としたかったのも本当だ。

 しかし少年は銀時の思惑を余所に、困難に思えた難関を、不器用ながらも手慣れた雰囲気で、あっという間に万事屋の一員として生活を送る基盤を作り上げ、越えてしまった。

 その間銀時は積極的に手伝う訳でもなく、少年に乞われて漸く、買い出しの足に原付バイクを出すだけで、何もしなかった。それなのに少年の瞳には、多少の呆れは浮かべど、銀時が想像したような決定的な失望の色は見えて来ない。

 いかにも軟弱そうで直ぐに日和そうな地味な外見とは違い、なかなかどうして粘り強く根性が据わっている。

 

 そう言えば、この少年と初めて顔を合わせた時も、こちらはバイクだと言うのに追う足を止めなかったし、自分が力不足な子供であると分かっていても、姉を救いたいと言う思いを諦めきれず、苦しそうに涙を溢れさせていた。

 諦めが悪いと言うよりは、掌の中に入れたものは、手放せないだけなのだろう。持ち続ける事がどれだけ苦しくても、それでも、自分の掌の中に在るものがどんなに得難く、放してしまえば二度と手の中には戻って来ないものであるかを、少年は知っているのだろう。

 それは銀時とて、同じであった。

 

 まぁ要するに、惜しがりで欲張りなんだろうよ、俺達は。ついでに貧乏性で落ちてるものがあったらついつい拾っちまうとなりゃ、尚更。

 似た者同士、同じ穴の狢、類は友を呼ぶ…そう言った縁で結ばれているのかもしれない。それならばきっとこの先、多少の事ではもう、離れないに違いない。何しろ一度握ったら、ちょっとやそっとの事では放さない者同士が、手を繋いでしまったのだから。

 

 

「な〜新八、お前俺の登場時の名乗り、ちゃんと聞いてたか?」

「は? いきなり何の話しですか?」

 銀時の手から受け取った回覧板を机の上に置き、挟まっていた用紙の一つに、和室にある箪笥の引き出しの奥に仕舞い込んで、銀時自身ですらどこにやったか分からなくなっていた判子をどうやってか見つけ出したのか手にし、印を押していた少年───新八は、怪訝そうな顔を銀時に見せる。

「ちゃんと言っただろうが。俺は万事屋銀さんだって。助手のお前が何時まで坂田さん呼ばわりしてるつもりだよ」

 新八は眼鏡の奥の黒い瞳を数度瞬かせた後、似合わないニタァとした悪どい笑みを見せた。

「つまりは、万事屋に正式採用ってことでいいんですよね?」

「おー、もうどうにでもしろよ。ここに居るって、決めちまったんだろ?」

「はい」

 力強くきっぱりと頷いた新八は、今度は嬉しそうな純粋な笑みを浮かべた。

 なんでそんな嬉しそうかねぇ。お前がついて来たがってる男は、夢も無けりゃ未来も無い、有るのは糖と垢と泥にまみれた経験の、ただのオッサンなんですけどもね〜。

 天然パーマも忌々しい頭を掻きながら、銀時は一人語散る。柄にも無いことを言った自覚はあり、つまりは照れくさいのだ。勿論銀時の心を一番くすぐるのは、臆面も無く、銀時の傍らにいられる事を喜ぶ目の前の眼鏡の笑顔ではあるのだが。

 

「でもそれなら尚更、町内会には入っておかなきゃですね」

「あん? なんでだよ」

「だって、依頼を一つでも多く貰うなら、まずは手近な所から攻めていかなきゃですよ」

 鼻息も荒い新八の様子に合点がいかず、銀時は首を傾げる。

「どうして依頼を一つでも多く、なんて話しになってんだ?」

「だってこれからは、この万事屋で二人分…いや、姉上の分も入れたら三人分、養っていかなけりゃいけませんから、これまで通りって訳にはいきませんよね? 正式採用となれば、僕もお給料が現品のままでいいとは言ってられませんから」

 しれっとした顔で言う眼鏡に、随分しっかりしている子供だなと、思わず苦笑が洩れる。まあ銀時も、本格的に背負い込む覚悟を決めた所であるから、反論はぜずに新八のやりたいようにさせる事にする。今までの閑古鳥を思えば、それくらいの事で早々に仕事が増えるとも思えないのもある。

 

「それじゃあ僕、お隣さんに回覧板届けて来ますね」

 銀時の顎の下でくるりと向きを変えた旋毛に向かって、声をかける。

「新八、そのまま買い出しに行くんなら、原チャ出してやるよ」

 それは初めて、新八に乞われる前に、銀時から差し伸べた手だった。

 振り返った新八は笑いながら言った。

 

「よろしくお願いします、銀さん!」

 

 

 

 

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似た様な話を漫画の方でも描いてました。考えてる人間が同じだから仕方ないか…