一寸先は恋

 

 

 くらり。見慣れた筈の屯所内にある自室の天井が大きく歪む。身体はまだ、紫煙の匂いが染み付いた自分の布団に横たえたままだというのに、感じてしまった目眩に、本格的な体調の不具合を覚え、土方は大きく息を吐いた。

 その溜息ですら奥に熱っぽさを感じ、喉はおもいっきり叫んだ後の様な痛みを訴える。ゲホッと喉の奥で息が跳ねた。

 随分久方ぶりのこの身体の変化。先頃覚えの無いこの症状が、どれくらい前にあったのかを思い出すのに時間がかかるぐらい、最近は罹っていなかった。しかし間違いない。というか、流石に間違いようが無い。

 風邪である。

 しかもけっこう…否、かなりの、重度な風邪である。

 たかが風邪。とは言えないような事情が土方にはあった。現在土方はテロ特殊部隊・武装警察真選組の副長の座を務めている。人を率いて導く立場である土方が、己の体調管理の甘さでその責務がまっとう出来ないのは問題である。それも勿論風邪をひけない一つの理由ではあったが、最大の懸念材料ではなかった。

 土方は日常において常に生命の危機に晒されている。その脅威が、対峙すべき攘夷志士やテロリスト等の狼藉者達からもたらされるのであれば、土方もまだ幾分、屯所内でも気が抜けると言うものだが、現在土方の生命を一番脅かしている存在は、残念ながらこの真選組内に存在しているのだ。

 このままこの屯所内の自室にて、風邪で弱った身体を晒していると、かなりの高確率で今後、土方の生命の危機は増すばかりである。

 幸いにもと言うべきか、それともとことん不運と言うべきか、土方は今日、一ヶ月に一日あるかないかの休息日だった。だからこのまま、この布団の中に包まっていても真選組内部の業務は何一つ滞りはしないのだが、土方は確実に黄泉への道に一歩足を踏み出す事になってしまう。

 はぁ………

 重苦しい溜息を洩らし、土方は言う事の聞かない重い身体を布団から持ち上げた。ここではない何処か別のゆっくり出来る場所を探すしか無い。

 何時に無い熱に思考能力の半分を奪われながら、土方は畳の上にだらし無く転がっていた己の私服に指を伸ばした。

 

 

 取り敢えず、よろよろとよろめきながらも早朝の江戸の町に出てみたものの、土方にはこの先の頼りがまったく思い浮かばない。

 隊服で城下を徘徊しては悪目立ちするため、あまり袖の通す事のない藍の着流しを纏ってはみたが、普段かっちりとした隊服を着慣れているため、麻布のこの着流しはどこもかしこもスカスカと随分と頼りなく感じられる。しかも、具合が悪いのにも関わらず無理して動き回った為に、土方の身体は抗議の声を挙げ始めていた。

 ブルリと身震いが襲う。熱が上がって来た証拠だろう。悪寒がするのだから恐らく土方の身体はこれからどんどんと熱を上げていくに違い無い。

 早いとこ横になれる場を捜さなければ、江戸を守る筈の真選組の副長ともあろうものが、風邪で江戸の町の片隅で行き倒れ…なんてなんともシャレにならない状況が出来上がってしまう。

 しかしこんな早朝に、土方に寝床を提供してくれるような知り合い等、土方は持ち合わせては居なかった。これが宵の口であれば、馴染みの娼妓の座敷に上がり込む事も出来るのだが、こんなうららかな日が差し込む早朝に見世を開いているはずもない。

 足を止めればそのままばったりといってしまいそうなので、土方は塀伝いにのろのろフラフラと、宛ても無く前へ前へと進むより他無かった。

 しかし塀は何時までも続いていてくれるわけではない。唐突に縋る塀を無くす曲がり角、土方は真正面から、何かと打つかってしまった。

 かろうじて後ろに倒れる事は堪えたものの、その反動で前のめりになってしまい、打つかった何かにのしかかる恰好になってしまった。

「うわっ! すいません。大丈夫ですかって…うわわ、どうされたんですか? 打ち所が悪かったのかな?………って、あれ? もしかして、土方さんですか? うわ、どうしよう、凄い熱だ」

 土方が打つかった何かは、どうやら人だったらしい。慌てて色々な事を捲し立てるその声に、土方は何処か聞き覚えがあるな、とは思ったが、それ以上思考を及ばせる事は出来ず、のしかかった態勢を元に戻す事も出来ずに、意識を徐々に霞ませていった。

 耳元で、ひじかたさん、ひじかたさん、としきりに誰かか呼ぶ声が響いていたが、それに返事を返せる余力は今の土方には残されていなかった。

 

 

 

 ひそひそと何処かで、誰かが囁いている音が聞こえて来る。しかし土方の耳は水の膜を貼ったかのような圧力が感じられ、その音は明瞭に聞き取れない。

 身体も、水底に沈められたかのように重く圧力が感じられ、土方はまるで一瞬己の身体が深海に沈められてしまったかのような錯覚を覚えた。

 

『も……し!! た……さんか?!!』

『…いません。ぼ……です。新…です』

『───………』

『…ってにこの回線を…ってしまって、……ません。ちょっと、お…らせしたいことが……』

『───……………?』

『今、家で………方さんをあず……まして』

『……………………』

『…え、どうも、お…ぜを…してらっしゃるみたいです。……の前で偶然…れまして』

『……………、……………!』

『いいえ、困った………お互い………すから』

『…………………?』

『多分、土…さんは、…田さんか………げてきたんじゃないかと。それで、近…さんには、こっそり…絡したほうが…………と思いまして』

『…………………!!』

『で、もし、よか…………ですけど、…方さんを、…ちであずかり………か?』

『……………!…………………?……………』

『それが一番………と。大丈夫です。…病には……れてますから』

『………………………』

『はい。はい。そ…じゃあ、はい』

 

 何処か遠くの方でひそひそと囁かれるそれは、水の膜が張ったような土方の鼓膜には、深海魚の囁きのようにも聞こえた。海底の水圧がかかったかのように重い身体と、それ以上に明瞭な思考の結べない重い意識とを、その囁きの合間に漂わせ、折角浮上した意識を何時の間にか、土方はうつらうつらとさせていた。

 何処か聞き覚えがあるようなその深海魚の囁きは、いくら熱で朦朧としているとは云え、真選組の副長をこの若さで務め上げる土方の鋭い警戒網には触れず、どこか心地良い響きとして、土方の耳元まで届いた。

 薄らと目蓋を開けると、薄光りが差し込んでいる濃茶の天井が見えた。土方の身体は当然深海には無く、すっきりとした石鹸の匂いが香る清潔そうな布団に包まれていた。

 先程土方に深海魚を思わせる程ひっそりとした調子で話していた声は、今度はまた別の違う誰かと会話を交わしているようだった。

 

『だから、今日は休ませて下さいって! 普段から仕事なんて特に無いんだから、今日僕が休んだって、何の支障も無いでしょう?!』

『……………………!………………………!!………………!!!』

『なんでこう言う時ばっかり、そう駄々をこねるんです? もうあんたいい年したおっさんなんだろうが。少しは分別ってもんを身に付けてみたらどうです? 僕だって忙しい時があるんです。今日はどうしても手が離せない用事が出来ちゃったんですって!』

『………………〜〜〜!…………。…………………?…………』

『僕がいなくったって、それくらい出来るでしょう? とにかく、今日はどうしても行けないんです。もう切りますからね。神楽ちゃんにちゃんとご飯食べさせてあげて下さいね』

『…………〜〜!!!……………』

 

 ガチャン。

 

 相手はまだ何か言葉を発している途中だったが、その声は無情にも断ち切られてしまった。

 目を覚ました土方は、ようやく薄らとだが、事情が呑み込めて来ていた。

 すっと土方が横たわっている部屋の外を人の気配が移動していく。そうして障子の前でその気配はピタリと止まり、音を立てないようにそろりとした動きで薄らと隙間が開いた。

 その細い隙間から猫のように身体を滑り込ませた少年は、土方の目蓋が既に開かれている事に気が付き、おや、っといった表情をした。

「目が覚めましたか、土方さん。具合はどうです? 少しはましになりましたか?」

「………万事屋の」

 そうボソリと零した土方に対し少年は苦笑を返し、頷いた。

「ええ、そうです。万事屋銀ちゃんの従業員、志村新八ですよ」

 そしてその手にもっていた小さなケースから電子体温計を取り出した少年は、ちょっと失礼しますよ、と土方を覆っていた掛け布団の端を持ち上げ、土方の二の腕を取り、それを素早く脇の下に挟み込ませた。

「あんた、覚えてますか? 道で打つかった途端、目ぇ回して倒れ込んで来るんですもん。よっぽど打ちどころが悪かったのかと一瞬焦っちゃいましたよ。その後は何度揺さぶっても起きないし、熱は高そうだったしで、取り敢えず屯所よりは僕の家に近い距離だったんで、連れ込まさせてもらいました。だからここは僕の家の僕の部屋ですよ」

「………手間、かけたな」

 まさかいきなり脇の下に手を突っ込まれるとは思っていなかった土方はあっけにとられ、少年が状況説明をしてくれるのを呆然と聞き流すしか出来なかった。だがどうやら自分は少年にえらく迷惑をかけた事は想像付いたので、なんとかそれだけの言葉を捻り出した。

 少年は土方のそんな返事に、ニッカリと笑みを返し、あっさりと言った。

「いいんですよ。こう言う時はお互い様ですって。それでですね、先程真選組の方には連絡いれときました。近藤さんが姉上に直通だからと教えてくれた番号に電話したんで、土方さんが風邪で寝込んでる事は、近藤さんしか知りませんよ。なので今の所は安心して家で休んでいって下さい」

「おう、そいつは、ありがてぇ話しだが………?」

 その言葉に不思議そうに見つめ返した土方の表情に気が付いた少年は、ああ、と、苦笑を漏らした。

「あんな酷い状態なのに、町中をふらついてれば、土方さんの知り合いなら誰だって、『避難』してるんだなって、分かりますよ。風邪のときぐらいは、ゆっくりと治したいですもんね。だから取り敢えずは土方さんの熱が引くまでは、家であずかる事になりましたから。なので今は何も考えずにゆっくりしていって下さい」

 少年がそこまで話し終えると、土方の脇の下でタイミングよく電子体温計のアラームが鳴った。少年はそれを差し込んだ時と同様に、土方の脇の下から見事な捌きであっさりと取り出してみせると、うわぁと、感嘆のような声をあげた。

「38.9°もありますよ。よくこんなんで外をほっつき歩いてましたね。とりあえず、朝食もまだでしょう? 食欲無くてもこれじゃあ体力が持ちませんから、喉通りの良いものを何か作って来るんで、食べて下さいね」

 少年はそう言うと、この部屋を訪れたとき同様、音の無い仕草で障子を開き、廊下へと消えていった。

 万事屋とは最初の縁が出来て以来、何かとかかわり合いになる機会は多かったが、この少年とは個別に対峙した覚えの無かった土方は、少年のいっそ無造作にすら思えるほどの土方に対する対応に、驚きを覚えた。少しでも視線が合えば恐ろし気に逸らされる事の多い土方に対し接するのに、あまりにも臆面のない様子に、新鮮さすら覚えてしまう。今の今まで、万事屋のおまけくらいに思っていた少年の印象を、土方はこの一瞬で180°回転させていた。

 

 

「土方さん、土方さん、眠ってしまいましたか?」

「ん………いや、目をとじてただけだ」

 少年のひそやかに己を呼ぶ声に、土方はうとうとしていた意識を浮上させた。土方の枕元に正座した少年がこの部屋に何時入って来たのか、土方は気が付かなかった。確かに一瞬眠りに落ちていたようだが、あまり深いものではなかった。眠っていた場合を考慮し潜められた少年の声に、直ぐさま反応出来るくらいには軽いものだったようだ。

「おかゆが出来たんで、もってきました。辛いかもしれませんが、少しでもお腹に何か入れておいた方がいいですよ。今の所風邪の症状は熱だけで、お腹は下してないんですよね?」

「ああ」

 少年はお盆の上から匙と器をとりだし、億劫そうに上体を持ち上げた土方に手渡した。傍らの土鍋の中には、白粥が湯気を立ているのが見える。正直食欲は全く無く、上体を起こすのも非常に苦しいのだが、これからどんどん熱を上げ、汗を出すだろうことを考えると、確かに多少なりとも腹に何か入れておいた方が良い。

「食べられそうな分だけでいいですから、この土鍋からよそって下さいね」

 もたもたとした動きで土鍋にかけられた木匙をつかって少量器に移し、土方はその粥を一口口にした。とたん、口の中に、梅の甘酸っぱさとじゃこのプチプチとした触感が広がった。少年がこさえた白粥は、ただの米の粥ではなく、粥の上にトロリとした梅風味の餡がかけられ、その中にはじゃこと白ごまがまぶしてあった。

 熱で気持ち悪くなっていた胸が、梅の甘酸っぱさに、すっと楽になる。

「………旨い」

 思わずそう零してしまう。マヨーネーズ無しの食べ物を美味いと感じたのは何時ぶりだろう。

 一口その粥を口にすると、土方は衰えていた筈の空腹感が急激に甦ってきて、当初は半分も食べる事は出来ないであろうと思われた土鍋の中は、すっかりと綺麗に片付いていた。しかも、餡かけ粥であった為、今まで悪寒を覚えていた筈の身体が、内側からほかほかと暖かい。依然熱は高かろうが、先程までの状態と比べ、格段に気分は良くなっていた。

「………ごっそさん」

 最初の旨いの一言以降、無言になってしまうほど夢中になってその粥をかっ込んだ土方は、全て食べを尽くしてからようやく一息吐いた、そして、そんな土方の様子をニコニコと眺めていた少年の視線にようやく気が付き、少ぅしばつの悪い思いを味わいながらも、土方は謝礼を述べたのだ。

「はい。お粗末様でした。食欲、戻ったみたいで良かったです。それで土方さん、薬はどうしますか?」

「薬は、眠くなるヤツか?」

「ええと、家に風邪薬ってないんですよね。あるのは鎮痛剤と解熱剤くらいで。どっちも眠くなるって箱に書いてありますね」

「じゃ、イラね」

 そっけない土方の返答に、少年は何故かふふっと笑みを零す。その気配に気が付いた土方は片眉を上げ、少年を見た。

「土方さん、時々、そうやって子供みたいな言い方になりますよね。銀さんとか、沖田さんと居る時とかは特に。普段、町中を、不審者を捜してあんなに鋭い目付きで練り歩いて、僕のような善良な一般市民まで脅してるってーのに、本当はこう言う一面もあるなんて、なんかちょっと微笑ましくて。気分を害されたんならすいません。あやまっときます。でも、さっきのイラねって。ほんと、子供みたいな言い方してましたよ」

 そう言って、クククッと鳩のように喉を鳴らして笑う少年の、一体何処が善良な一般市民か。一般市民ってぇのは真選組の鬼の副長を捕まえて、こんな風に心底可笑しそうに笑ったりはしねぇぞ。そう突っ込みを入れようとして、しかし、土方は、この時この少年の可笑しそうな笑みに、思わず見蕩れてしまっていた。

 健康そうな少年の円やかな線を画く紅に染まった頬を、思わず撫でてみたくなる。まだまだヒゲとは無縁そうな白い頬は、柔らかな和毛を備えた白桃を思わせ、触り心地が良さそうだった。

 寸前まで手を伸ばしかけ、ありえないだろう己の心の動きにギクリとして、土方は少年の頬に伸ばした指先の方向を慌てて変え、小さな鼻を摘まみ上げた。

「何時まで笑ってる」

「むがっ! 降参。降参ですってば!! でもじゃあ、この薬は必要ないんですね。薬で頭がぼんやりするの、土方さん苦手なんですか? 僕もそうなんですよ」

 先程から随分と少年に、己の事をズバズバと言い当てられ、土方はすっかり少年に気圧されてしまっていた。クールなポーカーフェイスで巷では通っている土方も、この少年の手にかかってしまえば形無しである。今までなぜこの少年を万事屋のおまけ程度の認識で過ごしていられたのか、今の土方にとっては不思議で仕方ならない。ぐうの音も出なくなった土方を気にするようでも無く、少年はマイペースに話しを続けた。

「だから、風邪の時は、たくさん寝て、たくさんあっためて、がっつり熱をだして汗をたくさん出して治しちゃうんです。それが一番治りも早いですしね。なのでそんなお供も用意して来ました。お粥があれだけ食べられれば、これも大丈夫ですよね?」

 そう言って少年は土方の前に透明のガラスの器を差し出した。中身は何やら擦りおろした何かと、琥珀色の液体。それが何なのか見当がつかなかった土方は、それをしげしげと見つめてしまった。

「ビタミンたっぷりの蜂蜜レモン擦りおろし大根入りです。風邪の時はビタミン摂取が一番の薬ですから。意外な組み合わせですけど、けっこういけるんですよ?」

 甘いもの駄目でしたっけ? と首を傾げる少年の手からその器を無言で取り上げ、器にささっていた銀のスプーンを口に運ぶ。

 レモンは適度にほんのり酸っぱくって、蜂蜜の喉に絡むほどの甘さは、擦りおろし大根の水分とピリ辛がうまく調和していた。大根の臭みは、蜂蜜が隠しているようだった。するりとのど元を通っていく。食後のデザートまで完璧な様子に、土方は思わず心の中で少年に向かって感嘆の唸り声を上げていた。

 ビタミンたっぷりの蜂蜜レモン擦りおろし大根入りまで綺麗に食べ終えた土方に向かって、少年は後はただひたすら寝て、ひたすら汗を掻くだけですねと言って土方を寝かしつけ、食器の後片付けしに、奥へと引っ込んでしまった。

 一人残された土方は、ここにきてようやく、少年の部屋の内部を観察する余裕が生まれて来た。

 少年の部屋は簡素で極端にものが少ない。小さな机が一つに、壁には賑やかし程度に、ある特定のアイドルのポスターが何枚か貼られているだけだ。小さなCDプレーヤが申し訳程度に、年季の入った古い机の横に鎮座している他には、畳の上には何も無い。数秒で見るものが無くなってしまった土方は、口元まで布団を持ち上げ寝返りを打つ。

 すると、ここで意識を取り戻してから最初に感じられた爽やかな石鹸の香りが、再び土方の鼻腔を満たした。

 その清々しい心地良い匂いに包まれ、土方は唐突に思い至る。土方が横たえられているこの布団は、もしや、あの少年のものではないだろうか。あの少年が石鹸にまみれ洗濯をしている様を、土方は、以前から巡回の途中に何度か目撃したことがある。それは万事屋にいても、少年の家の中庭にいても同じ光景が何度か繰り返されていた。

 そんな少年の体臭が石鹸の残り香になるのは極自然で、この布団が少年の使用しているものならば、布団なのに石鹸の匂いが香るのも頷ける。

 そう納得すると同時に、カッ頬に熱が集まるのが感じられる。風邪によるものではないそれに、同時に動悸までもが激しくなってしまう。

 自分よりも十も下の、しかも同性である少年の、体臭が残る布団に横たわっているからと言って、何を気にする必要があるのだろう。何も無い筈である。何かある方が可笑しいのだ。

 こんな熱、こんな動悸は、ただの錯覚、錯覚、錯覚なんだ!

 と心の中で強く念じ、こんなもの、熱で頭が朦朧としているから不安になっているだけなんだと、無理にこじつけたりもして、土方はどうにか己の中に生じた不穏な感情を紛れさせた。

 そして、その内、風邪による本物の疲労により、忙しなくなっていた土方の意識は、眠りの淵へと呑み込まれていった。

 

 

 

 寝起きの明瞭ではない思考のもと、土方は目に映ったその光景を、素直に綺麗だと、感じていた。

 土方のすぐ目の前で、少年は穏やかな寝息を聞かせ、眠り込んでいた。

 少年の顔は、少年の姉に作りがよく似ている。所謂女顔なのだろう。だが、少年が起き、話し動き回っている様を見て、まず女々しさを感じるものは居ないだろう。少年は、何処までも少年らしい潔さを何時でも感じさせる。それは、少年と初めてまともに対峙したばかりの土方にもよく伝わってくるものだった。その所為で、顔の作りは何処までも女顔にも関わらず、少年に女々しさを一切感じさせないのだった。

 こうやって、瞳を閉じている少年の造作は、驚くほど繊細だった。小さく愛嬌のある鼻。伏せられてすら長い睫毛。優しい弧を画く眉。くちびるは、すこし厚ぼったく、幼子のようにプクリとしている。

 こうして見ると、少年はまるで少女のように可愛らしく綺麗に見えたが、この少年の本当の魅力は本当はそんなものではないと、瞳が閉じられたこの顔を見て、土方は実感した。少年の持つ造作の中で一番美しいのは、あの、人の目を真っ直ぐに見る、大きな漆黒の瞳だ。

 土方の、瞳孔が開き気味だと言われる鋭い眼差しにすら、まっこうからぶつけて来るあの瞳。あれが、一番美しい。

 そんなような事を、寝起きで寝ぼけた頭の中でつらつらと考えながら、土方は徐々に覚醒していった。

 いや、まて。同性の少年相手に美しいって、なんだそりゃ?!

 眠りに着く前に、必死に勘違いだと思い込もうとしていた動悸が一気に甦って来る。

 いや、っていうか、近いし。なんでこんな近くで仲良し子良しでお寝んねしてんだ? これって、同衾?! 同衾ってヤツか?!!

 少年の眠る表情を見て嫌が応にも動悸を早ませてしまったのだから、その寝顔から視線を外せば良いのに、土方にはどうしてもそれが出来なかった。

 意識ははっきりと覚醒したのに、心の奥底で、少年のこの綺麗な寝顔を見続けていたいと騒ぐ土方が居るのだ。

 それって、それって、なんだそりゃ?!

 一人内心大慌ての土方を置き、少年は健やかな寝息を途切れさせ、ふわりと目蓋を開かせた。間近で開かれたその瞳に土方は思わず飛び起きる。

「あ………土方さん、目、覚めました? よく眠ってましたね。疲れがたまってたんじゃないですか? 実はあの後何回か土方さんの様子を見てたんですが、全然起きる気配がなくて。今は次の日の朝ですよ」

 そう言いながら身を起こした少年は、きちんと土方がお世話になった布団とは別の布団の上に居た。残念ながら土方が慌てた同衾という訳ではなかったらしい。

 だから、残念って、なんだよそりゃ?!

 再び、そう心の中で突っ込みを入れ、土方は己の心の平静を取り戻そうとした。

 少年は、急に飛び起き動かなくなってしまった土方を不思議そうに見つめ、未だ半分寝ぼけ眼のまま、ああ、と頷いた。

「熱は、どうですか、土方さん」

 その言葉と共に、土方の額にふわりと少年の手の平がそえられる。

 土方の目前には、吐息がかかるほど近くに少年の顔が寄せられた。

 土方が美しいと見惚れた漆黒の瞳が、真っ直ぐに土方にむけられる。

 土方が一寸どうにかすれば、触れられる距離に、少年は居る。

 一寸の先に…………

「ああ、よかった。熱は、下がったみたいですね。流石は、普段から身体をきたえているだけのことはありますね。回復力が違う」

 少年の黒い瞳に引き寄せられるかのように、身体を傾げかけていた土方は、そう言ってさっと額から手の平を外した少年にはっとさせられた。

 やっべぇ…俺、今、なんかの境界越え掛けた。

 だらだらと、背筋に嫌な汗が落ちる。

 土方の一寸先に、思いもよらない落とし穴がポッカリと口を開け、待っていた。

 一寸先なんて、マジヤバくないか? よろけただけで、境界こえるだろ?!

 よく考えろ俺、一寸先は闇だろ?! 一寸先にバラ色の人生が待ってるだなんて上手い話し、聞いた事ないだろ?! だから、その先を越えたがってるんじゃねって、バカ! 俺のバカ!! テメエは泣く子も黙る天下無双の真選組副局長土方十四郎だろ?!!!

 

 こうして土方は、この日人生初めて、一寸先の恐ろしさを知ったのだった。

 

 

 

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既刊『一寸先は恋』より掲載