ネクタイ
「ん…んん〜………んー…」 声だけ聞けばまるで喘いでいるようにも聞こえる音で、一歩は悩んでいた。 (どうしよう…自分で言い出した事なのに、今さら出来ませんなんて、言えないよね………) チラリと、至近距離に見える目の前の唇に視線を走らせる。気まず過ぎて、瞳まで目線を上げる事が出来ない。唇は、横一線に引き結ばれていた。 (どうしよう、どうしよう!僕があんまりにもモタモタして待たせるから、鷹村さん呆れてるんだろうな) まさかこんなにネクタイを結ぶ事が難しいなんて思わなかった。もちろん一応成人男子のたしなみとして、一歩もネクタイの結び方ぐらいは理解していた。普段あまりにも縁が無いので、その結ぶ手付きはとても危なっかしかったが、時間を掛けさえすれば何とか形になるのだ。 それが向い合せになって結ぶだけで、如何してこんなにも訳が解らなくなるのだろうか……… (ええっと、こっちを下にして、こう回り込ませて…これをこう潜らせて………) 今度も失敗だった。長さがチグハグな所か、結び目が表裏逆だった。どうやったらこんな器用な間違い方が出来るのか、自分でも不思議でならない。 カァ〜と、頬が赤くなっていくのが感じられる。 「う〜〜〜…………」 思わず又、唸り声が洩れてしまう。 今ではバンテージだってあんなに簡単に結べるようになったのだが、思えばそれを覚えるのにも酷く苦労したのだった。練習無しでいきなり向かい合わせにネクタイを結ぼうなんて、自分には到底無理だったのだ。
…………それに、何より、この近さは全くの計算外だった。 先程から後頭部に痛い程鷹村の視線を感じて、全然落ち着かない。焦れば焦る程、意識すれば意識する程、指先は思うように動いてくれはしなかった。 すっと、襟足に指の感触がして、一歩は思わずビクッと身体を震わせてしまう。 「っ!!!」 思わず見上げた先には、何か面白い物でも見付けた時の悪戯好きな少年を思わせる、満開の笑みを浮かべた鷹村が居た。 「俺様が十数える度に、ネクタイ結び終わらなかったら、ちゅー一つな!」 しかもお前から、勿論ベロチュウで。 鷹村からのとんでもない提案に、一歩は頭がクラクラするのを感じた。これは何が何でも一歩にネクタイを結ばせる気なのだ。例えどんなに時間が掛かったとしても。 「いーち…」 「まままッ待って下さい!!!」 目を白黒して、一気に耳まで真っ赤にした一歩が慌てて再びネクタイ結びに挑戦する。 緊張で指先は震え、痺れたような感覚がした。 先程襟足に添えられた鷹村の左手は、奔放に動き一歩の髪を弄くり回していた。 (うわわ!!くすぐったいよ〜鷹村さん!!!こんなんじゃネクタイ結ぶのに集中出来ません〜〜〜) 涙目になりながらそう思う一歩だったが、こう言う笑い方をしている時の鷹村に進言すると、もっと酷い事になるのは百も承知だった。 「に〜、さ〜ん、し〜、ご〜…、ろくしちはちきゅうじゅう」 「ええ?え?え?」 途中までゆっくり数えていた鷹村だが、自分から言い出した事を早々に飽きてしまったのか、一歩が止める間も無く、駆け足で十数え切ってしまった。 「は〜い、一歩君。俺様にベロチュウ一つ〜」 う〜と、タコの唇をして、鷹村が迫る。 「そっそんなぁ〜」 一歩は太い眉毛を情けなく八の字に下げて困惑した。しかし、鷹村のネクタイを結びたいと言い出したのは、一歩からなのだ。それなのに混乱して待たせてしまった負い目があった。 モジモジと、一歩は身じろぎをすると、意を決したように鷹村を見据えた。 「った、鷹村さん、目、瞑って下さい」 おっ!と、鷹村は思った。自分で提案しておきながら、一歩からのキスが貰えるとは思っていなかったのだ。もう少しで襟足に添えた手の平に、力を込めてしまう所だった。 強い瞳の光に、鷹村はニヤけるのを抑えつつ、うっすらと目蓋を下ろす。 こんな時でも尚更精悍で格好良い鷹村の表情に、一歩は動悸を抑える事が出来なかった。 「行きます…」 そんなつもりは無いのだろうが、結構エロい台詞を吐く一歩の固い声に、鷹村は軽く興奮する。 次の瞬間にはふわりと唇に感触が在り、ヌルッと口腔内に入ってくる存在があった。それは鷹村の舌にチョンと触れると、慌てたように自分の口腔内に引っ込んで行ってしまう。 ニヤリと今度こそ、唇を合わせながら鷹村は笑う。退こうとする一歩の頭に力を込めて、手の平で押さえる。 一歩の口腔内は、指先に走った痺れなど目では無い程の、甘ったるいシビレが駆け巡った。 「んン?…………〜〜〜〜ん!!!」 「ぷはっ!さて、次に行くとするか〜……い〜ち………」
一歩は鷹村に抗議を言う隙すら与えられず、慌ててまたネクタイ結びに戻るしか無いのだった。
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