「うわわっ!」 「え?」 背後から聞こえて来た短い叫び声に、幕之内一歩は素早く反応し振り向いた。 歩道橋の上から、小さなビニール袋に包まれた包帯の様な物が2・3個程落ちて来る。一歩は咄嗟にそれらを持ち前の働体視力と、ジャブの応用で素早く華麗に受け止めていた。 それまで一歩の隣を走っていた、鴨川ジムの後輩である板垣学は、その華麗な身体捌きに陽気にパチパチと拍手を送る。 「悪ぃ!!あんがとっ!!!」 カンカンカンッと軽快な音を立てながら、先程叫び声を上げた○△高校指定のジャージを身に付けた男子学生が、一歩の下に駆け降りて来た。 「はい。これ、バンテージだね。君もボクシングをやるの?」 「おっあんた、只者じゃねえな?さっきの動きと言い、これを一目で包帯じゃ無くバンテージだって見抜いた事と言い…あんたもボクシング部員か何かか?何処の高校だよ?今度俺ん所と練習試合でも戦んねー?俺の高校さ、ボクシング部無くて俺一人で同好会作ってよー、今日やっと生徒会から会費が降りてさ。一人だから雀の涙程度しか貰えなかったけどよ、まずは細々した物から揃えようと太田スポーツ店に行った帰りに、こうよ」 立て板に水のごとく喋り続けた男子学生は此処で一端言葉を切り、見事に底の抜けた茶色の紙袋をバサバサとかざす。あすこの店はボクシング用品の品揃えは良いけど、こういう所でけち臭ぇからはやンねぇんだよな〜〜〜等と一人語ちる。 今時の若者らしく早い会話のテンポに、付いていけず、ポカンとしていた一歩は、其処でようやく気の抜けた声で相槌を打った。 「…そう、それは大変だったね」 「だろ?で、何処の高校?一人じゃマスボクシングもスパーリングも出来なくてさ〜。良ければあんたン所の練習にちっと混ぜてくれよ。さっきのはかなり良い動きだったぜ。きっと良い指導者がいるんだろうな〜」 羨ましいぜっ!と言ってニカッと笑う少年の顔に、はじめて何やら勘違いされてるらしい事に一歩は気が付いた。勘違いには気が付いたが、何と言って返事をしたら良いのか分からず、思わず口籠ってしまう。 「え?ええっと、あの…その………」 「なんだ?あんた1年か?だよな、その顔付じゃ。まあ下っ端がそう言う事を頼むのは、頼み難いよな。だったら、今からあんたン所の高校に行こうぜ。俺が直接頼んでみるから」 一人でボクシング同好会を立ち上げたと言っていたその男子高校生の行動力は、抜群のようだった。あれよあれよと言う間に決まって行く話に、一歩は焦る。 「あ、あの、ごめんなさい、違うんだっっ」 「え?なんだよ、まさかあんた中学生だとか?それでも俺は構わないぜ?」 一歩はその台詞に衝撃を受けた。まさか21にもなって、中学生と間違われるとは………沈む一歩には気が付かず、男子生徒は言葉を紡ぐ。 「あんた名前は?これから世話になるんだろーから、まずは自己紹介からしようぜ!!」 明るく自分の名前を言う高校生に、一歩はどうしたものか?と頭を悩ませる。 すると、今まで黙って二人のやり取りを見つめていた板垣が、可笑しそうに一歩に話し掛けて来た。 「先輩、素直に名乗った方が身の為ですよ」 「は?先輩?」 実は先程から傍らに佇む板垣の存在を、密かにコーチか何かか?と検討を付けていた高校生は、その言葉に不思議がる。 「あ〜う〜〜〜、ええと、その、僕の名前は、幕之内一歩と言いましてですね〜〜〜」 気まずさから、一歩の言葉使いが思わず丁寧語になる。 「へえ〜〜幕之内?フェザー級チャンピオンと同じ名字なんだな…………って、え?幕之内、一歩???」 驚愕に目を見開きながら、震える指で高校生は自分より背の低い目の前の童顔を指差した。 確認するような高校生の言葉に、一歩は一つ一つ頷いて行く。 「現在6防衛中の?」 「はい」 「19戦18勝の?」 「は・はい」 「しかも勝った試合すべてKO中の?」 「あ、はい。出来過ぎですけど…」 「うえええええええ?!俺より年下に見えるのにぃ?!」 最後の問い掛けとも言えない絶叫にだけ、一歩は返事をする事が出来なかった。 「これで、チャンピオン?!中学生みたいなあんたが?!リングアナに『最強のベビーフェイス・ハードパンチャー』とか言われてる?!…………って、それじゃあ、あんたでいいんじゃ〜ん!!!」 なんだか厭な納得のされ方だったが、どうにか理解して貰えたようだった。 (それにしても僕、そんな呼ばれ方されてたんだ………) 試合前や試合中は目の前の事で手一杯で、実況やリングアナがなんと話しているのかなんて、さっぱりだ。自分の試合のビデオテープも見返したりはするが、反省点だらけで、やはり聞いている余裕等無い。 「悪ぃ………じゃなくて、すんませんでしたぁ!!分からなかったとは言え、尊敬する幕之内選手に対して失礼な態度とって………」 ビシッと背を伸ばして凄い勢いで頭を下げる高校生に、一歩はアワアワと慌てる。 「いや、いいんだよっ、お願いだから頭を上げて!!観客とかに混ざると、誰も僕だと分からないんだから、君の態度に怒ってなんかいないよ」 二人して、何やらペコペコ頭を下げたり上げたりする。暫く混乱したのち、高校生は、一歩に握手と、買ったばかりのバンテージにサインをしてもらって、名残惜しそうにその場を去って行った。 はあーと、一歩が安堵とも憔悴とも付かない溜息を吐く。 ググッと喉が鳴る音が頭上から響いて来た。 「く〜〜〜ははははは、駄目だ〜〜〜可笑しすぎますっ、すみません先輩っ」 息も絶え絶えにそれだけ告げると、板垣は身体を二つに折って笑い始めた。 妙に静かだと思えば、ずうっと、笑うのを堪えていたようだ。 そんな板垣の様子に、一歩の太い眉毛がキュっと下がり八の字になる。 「僕ってそんなに年相応に見えないかな〜?」 珍しく一寸拗ねたような物言いに、板垣は目尻に溜まった涙を拭いながら答えた。 「少なくとも僕と並んで歩いたら、十中八・九、僕の方が年上に見えちゃうでしょうね」 今ジムで練習生を除き、一番若いのは板垣だ。その板垣よりも年下に見えてしまうなんて………… がっくりと一歩は両肩を落とした。確かに普段おどおどした態度を取っている自分は、さぞかしボクシングなどしているようには見えないだろうが、成人にすら見えないなんて………… 余りにも力無く落ち込む一歩の姿に、板垣は笑いを引っ込めて言う。 「先輩、あんまり落ち込まないで下さいよ。外見でボクシングをする訳じゃないし、何よりも、先輩がどんな顔してたって、僕の尊敬するボクサーである事には変わり無いんですから。胸を張って、前を見ていてほしいな〜」 「学君………」 板垣のその台詞に、一歩はハッと顔をあげる。その様子を見た板垣は、それまでのおどけた調子を改めて、真面目な表情で言葉を続ける。 「それに………」 「それに?」 真剣な様子に引き込まれるように板垣の顔を見上げていた一歩は、次の瞬間片目を瞑ってウインクする彼の姿を目撃する。 「考えても見て下さい?先輩なら、あらゆる施設を学生料金で使い放題ですよ〜〜〜?料金提示の時、偶々学生証忘れたって言えば、誰も疑いませんもんきっと!!」
恐らく板垣流の精一杯の励ましなのだろう。だがその台詞に一歩が心の中で滂沱の涙を流したのは、言う間でも無い事だった………
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