その噂は初め口コミで広がっていった。

 後楽園ホールには氷の貴公子が存在すると…

 好奇心旺盛だった一部の暇な女子高生は事実を確かめる為に足を運び、偶然にもその貴公子の試合を見る事が出来た。その後は彼女らの物凄いネットワークによりその情報は千里を走る。彼の試合には逐一チェックを入れ、まるでアイドルのように追い掛け回した。

 しかし、彼女らはアイドルの追っ掛けのように、試合で騒ぐ事をしなかった。

 否、しないのでは無い、彼の持つ独特の冷たさが騒ぐ事を許さなかったのだ。それでも彼女達は貴公子に少しでも自分をアピールしようと躍起になった。

 それから、後楽園ホールの外で貴公子の出待ちをする女の子の姿が暫し目撃された。その光景は、普段はサラリーマンなどの男性の姿が多く目立つ後楽園ホールでは、酷く目の引く珍しい光景だった。

 その人垣の先端で、軽いざわめきが起こった。

 私服でも分かる、独特の雰囲気を漂わせた人物が、伏目がちに歩いて来るのが分かった。

 彼だ!!誰もがそう思ったが、普段は随分積極的な彼女らが、誰一人近付こうとはしなかった。リングの上の彼よりも幾分空気は弛んでいたが、それでも尚、彼女達の口を封じてしまえる程、貴公子の空気はピンと張いつめていた。

 後楽園の入り口付近に固まっている異様にも思える女性の塊に一瞥も向ける事は無く、彼は颯爽と姿を消した。

 まさに氷の貴公子。

 彼女達はそんなクールな彼の姿に尚更熱を上げた。

 

 そんな事を数カ月繰り替えしたある時…彼女らは自分が興味を持ったものに対する旺盛な好奇心と鋭い観察眼により、薄々感付き始めていた。

 氷の貴公子と呼ばれる彼のクールさは、別にクールでも何でも無くて、単に感心がまったく無いだけなのではないかと…ある、一点を覗いて…………

 彼は普段も、ましてやボクサーにあるまじき行為だが、試合中のリングの上でも、相手を本当の意味では見つめていないように思えた。

 その瞳の色が最初は冷たい氷の様なイメージを抱かせたのだが、その何ものも見つめていないような遠い瞳の奥に、熱い溶岩のような光がチラチラと浮かんでいるのを…………

 そして彼女達は唐突に悟る。

 彼・氷の貴公子と称される宮田一郎は、『それ』意外何も見る気は無いのだと。

 見込みが無いと悟った大半の女性は追っ掛けを止め、それでも彼を見つめていたいなんて言うマニアックな女性は、今まで通り騒ぐ事も無く遠巻きに宮田を見つめ続けるに到った。

 

 彼女達は知らない。

 

 宮田一郎が唯一見つめ続ける存在が何かと言う事を…………

 

 クールそうに思える表情の裏で何を考え続けているのか………

 

 世の中には知らない方が幸せな事の方が随分多いのだ…………

 

 

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