風邪引きの君へ
コホコホと軽く咳をした後輩に、目端が利き何事にもよく気が付く木村が、目敏く反応した。 「なんだ?一歩。咳なんかして、風邪でも引いたか?」 「………え?あっハイ。じゃなくていいえ、も・もう治りましたから…」 何処か何時もよりテンポが遅く反応し、1人焦っている様子の一歩に、木村はシャドーを止め、やれやれと溜息を吐きながら近付いた。 「なんだよお前、それじゃあやっぱり風邪引いてたって事じゃねぇか」 「あ・あの、でもそれは、休息日中にちゃんと治して来ましたから…」 だから皆さんに移すような真似は…等とゴニョゴニョ口の中で喋りつつ、両の人差し指と親指を交互にこねくり回しながら、肩を自信なさげに丸める目の前の成人(したはずなのに全く見えねーな、こいつ)男性を見て、木村は更に深い溜息を吐く。 「…別に、んな事を気にしてる訳じゃ無い。一一一さっき、咳きしてただろ?まだ万全じゃないんじゃねーのか?」 前半を態と一歩に聞こえない音量で呟いた後、しかめっ面を作って問い質す。案の定、気の小さい現日本フェザー級チャンピオンである後輩は、ワタワタと手を振り回しながら言い訳をしはじめた。 「い・いえ、あれは一寸咽せただけで、本当にジムに流感を持ち込むような真似はっ!!!」 「薬。薬は飲んで来たのか?」 木村のその一言に、無意味に動かしていた手をピタリと止め、一歩は質問者の顔色を窺うようにそっと見上げていた。 「あの…本当に治りましたから………」 「………飲んで、来なかったんだな?ジムに常備薬は持って来たか?」 「…はい…一応母さんに…」 持たされました。と元気無く呟く一歩の姿を見て、木村の脳裏にはある考えが閃いていた。 「はは〜ん。お前、錠剤もしくは薬全般飲むの苦手なんだろう?」 「!」 弾かれたように一歩の肩が激しく動き、次の瞬間には十を零にする持ち前のダッシュ力を活かして詰め寄られ、木村の口は一歩の両手で思いっきり塞がれていた。そして小柄な黒い頭は、木村の顎の下でせわしなく辺りを見回している。 勢いで、鼻まで塞がれてしまった木村は慌てて一歩の背中をバシバシ叩いて苦しさをアピールした。 それに気が付いた一歩は慌てて木村の口から手を放し、一歩後ろに下がろうとした。が、背を叩いた手をそのままにし、木村は一歩が己から離れるのを阻止した。 「何だお前、図星だったのか?おまけにその事実を人に…主に理不尽大王とその子分辺りには知られたく無いっと…」 耳もとで低く囁かれて、不意に気恥ずかしい格好で密着してしまった状況に軽くパニックを起こしかけていた一歩は、その内容に思わず力強くコクコクと頷いてしまう。 「そうなんですっ、鷹村さん達に知れたら、なんて言ってからかわれるか…只でさえ子供扱いされぎみなのに、この年にもなって玉薬が上手く飲み込めないなんて知れたら、赤ん坊扱いされちゃいますよ!それだけならまだましなんですけど、その所為でこんな情けない先輩を持ったって、学君まで恥ずかしい思いをさせちゃったら可哀想ですし…」 (ん〜彼奴なら寧ろその事実を、先輩可愛い〜vVなんてほざきつつ、せ・ん・ぱ・いVv、僕が薬を飲ませてあげましょうかVVVVV?なんてセクハラ三昧かましそうだよな) 心の中でわざわざ板垣の声色を真似をしながら想像した事に、木村は何故かむっとしてしまった。むっとしてから思わず慌ててしまう。 (俺は何慌ててんダ?むしろ何に苛ついてル?嫉妬とか今頭を過らなかったか?イヤイヤイヤ、待て待て待て、誰にだ?板垣は男で、一歩ももちろん男で…って、じゃあさっきの想像事態、激しく何かが間違ッテイナイカ?つーか、この体勢も、まじ・ア・リ・エ・ネ・エ!!!!) 「あ・あの木村さん…お願いです、どうかこの事実は二人だけの秘密にしてもらえませんか?」 急に黙り込んで動かなくなってしまった木村に僅かに不信感を抱きつつも、どうせ今近いのだからと、一歩は小声で目の前の耳に囁き、相手の反応を窺おうと顔を覗き込む動作をする。
後になって冷静に考えてみても、何かがブツリと力強く切れる音が聞こえた、と木村は感じていた。
「なあ一歩、錠剤が上手く飲み込めるようになるコツを、教えてやろうか?」 「え?コツなんてあるんですか?ぜひ、教えてほしいです!!」 目の前の間抜け面を晒した獲物に、ニッコリと、お花屋さん家業で磨かれた営業スマイルで安心感を与えつつ囁く。 「じゃあまず口、開けてみな?」 「こ・こうですか…ンム?!」 おずおずと開いていく薄桃色の唇が、完全に開き切る前の油断している時に、噛み付く様に口付ける。相手がまだ何が起っているのか正確に把握する前に、口腔内に舌を捩り込ませる。 「ムモ?!ムムムムム?」 色気のまったく無い相手のもがき声に苦笑しつつ、その声を喘ぎ声に変えるべく、木村は精力的に舌を動かし始めた。 (え?え?何が起ってるんだろう?もしかしなくても僕、今、木村さんと………うっうわあああああ??!!!!) 何で?とか、どうして?とかが一歩の頭を廻りつつ、思わず横目でジムの誰かに、この冗談(木村にとってはそうかもしれないが、一歩にとってはまったく洒落にならない。何しろファーストキス!になってしまうのだ)と思われる行動を止めてもらいたくて、必死に助けを捜すが、あいにく平日の午前中で練習生はまだ居らず、青木はバイト、板垣は今日は午後からの予定で、鴨川と八木は揃って外出中、ジムに来るなりその事実を知った鷹村はロードワークと言う名のサボリで、トレーナーの篠田はボクシング用具を天気がいいからと裏の水道で洗ってから虫干ししている…つまりは今この空間にいるのは一歩と木村の二人だけで……… (あわわわわわっ!!しっ舌がっ、き・木村さんっ何してるんですかっ) 呆然自失の状態からようやく脱した一歩は、慌てて木村の舌を追返そうと己の舌で抵抗する。 一歩の精一杯の、それでも微かな抵抗に気が付いた木村は、閉じていた目蓋を薄く開け、ニヤリと笑った。 近すぎて、目が細められたのは分かったが、笑ったのは見えなかった一歩は、その唇の動きで木村が笑ったのを感じた。現れた瞳の色に、思わず状況を忘れて見入ってしまう。 (木村さんって、普段鷹村さん達とふざけてばっかりで気がつき難いけど、整った顔付してるな〜〜〜睫毛もあんなに長いし…かっこいいなぁ) 根がミーハーな一歩は状況も忘れ(もしくは現実逃避の為か)、しげしげと間近にある木村の顔を観察してしまう。 微かにあった抵抗も消えてしまい、木村は不思議に思ったが、ここが付け込み所だと、尚一層ねっとりと舌で粘膜をこすりあげる。 「ン…フ………ァ…」 鼻にかかった甘い吐息が混ざり始め、木村は尚も一歩の口腔内をねぶる。頬の内側を舐め上げ、必要に歯茎をいじり上顎の裏を攻め落とす。 ガクリと一歩の膝から力が抜けた。すかさず背に回していた手に更に力を込めて支える。 (逃がさねーよ…) 「ムン…………ハッ………」 ディープキスどころか、フレンドキスすらした事のない一歩は、息継ぎの仕方が分からずに苦しくなる。もうどちらの物ともつかなくなった唾液が一歩の頤を滴り落ち、喉元まで到達した。窓からこぼれる日の光を反射して輝く軌跡に、喉仏が大きく上下するのが見て取れた。 その一歩の動きに、ようやく木村は唇を解放した。 「………な?今みたいによ、口に中に何かが入ってるってのを意識しないで飲めば簡単なんだよ」 そう言って囁く木村の声は、遠のく意識の中、(何も実践してみせなくても…)と感じた一歩の感想と共に強烈に記憶に焼き付く事になったのだった。
「おい、一歩?」 もっと何か反応があると思って、内心混乱の境地にいた木村は、己に体重を預けぐったりした様子の一歩に訝しがる。 抱え直し、より密着する体勢に変えたとたん、シャツから伝わる相手の熱に、木村は慌てた。 「こいつ、今のショックで熱だして目ぇ回してやがる!!」 己でも信じ難い行動を、受け取る側だった方はまったくの初心で…恐らく未経験者でもあっただろう。おまけに病み上がりなのだ。 悪い事をした。と猛烈に罪悪感に苛まれつつも、一歩に肩を貸しながら慌ててロッカールームに歩を進める。 (たしか常備薬を持って来てるとか言っていたよな) 蒼いのか紅いのか分からない後輩の顔を見つめつつ、木村は更に考えた。 (この様子だと、薬も1人で飲み込めるかどうか………) ロッカールームの扉の前に辿り着き、木村はある予感に身体を奮わせる。 (多分、そうなるだろう…病中に襲うのは趣味じゃ無いが、この場合は他に手が無い…) マウストゥーマウスの一種だと思って、一歩には我慢してもらうしか無い。 まずは介抱が先だ…。それから先程の自分の行動の意味を考えればいい。 あの行動に罪悪感は感じても一一勿論自分が起こした行動なのだから当たり前なのだが、一欠片も嫌悪感を覚えなかった理由を…どうしてあんな行動を取りたくなってしまったのかを… 恐らく殆ど答えは出てしまっているのだろうが、往生際悪くそんな事を考えながら木村はロッカールームに続く扉に手を掛けた。
次の気持ちに進む扉に………。
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