呼吸ノヨウニ

 

 

 今まで特に、その日を意識した事はなかった。周囲の人間の台詞や、何処で調べたのか、自宅やジムに届けられる綺麗な包装紙で包まれた物で、今年もその日が来たのか…と思考の端に上るだけで、祝う事すらなかった。

 だからけして、いつものロードワークに向かう前に、居間の壁に申し訳程度に飾られたシンプルなカレンダーを覗いたのも只純粋に、今日の日付けと、それに伴うコンビニバイトのシフトを確認するだけの作業のつもりだった。

 なので浮かんで来た思考は、極々単純なものでしかなく、その日でなくとも普段から考えそうな思考でしかなかった。

(………そうか、何時の間にか今年もそんな時期か。)

「父さん、ロードに行って来るよ。」

 居間を覗いたついでに、父親に外出の旨を告げる。

 いつもと変わりない息子の姿に、宮田の父も腰を落ち着けたソファーから振返りもせず、普段と変わりない返答を返す。

「そうか。余り走り込み過ぎるなよ。最近お前は常にオーバーワーク気味だ。減量がきついのは分かり切ったことだが…」

 父親として…否、トレーナとしてのそのいつもの台詞に、宮田は最後まで言わせずさえぎった。

「分かってるよ。そんなに心配しなくても大丈夫さ…。自分に課せられたものをきっちりこなすのが、プロだからね…」

 そう話しながらも玄関に行き、ランニングシューズのひもを結び直す手を止めない。

 玄関の取っ手に手を掛けた所で不意に、居間に居る父親が、大きな声をだした。

「一郎!!………誕生日おめでとう。お前が生まれてきてくれて、私は本当に誇りに思っているよ。」

「ありがとう、父さん。」

 静かに、そう返しながら宮田は玄関の扉を開けた。

 父一人、息子一人で毎年何も特別な事はしなかったが、この言葉のやり取りだけは、何かの儀式の様に宮田の年の数だけ繰り返して来た。父が言う台詞に、簡素な返礼を言うだけ。何時もと変わりないはずの台詞。

 そうだ…自分は何も変わりない筈だ。

 宮田は黒猫を思わせるしなやかな動きで玄関の扉を潜り抜け、外へと駆け出して行った。

 

 空気が重い…潮の香りがする。何より寄せては返す波の音が、絶えまなく宮田の耳に届いていた。

 じりじりと照りつける太陽が、薄い目蓋を通してオレンジ色を宮田に感じさせてた。背にしたコンクリートから焼けるような熱を感じる。

 自分は何故、今このような場所で仰向けになっているのだろうか?

 確かに自分が行った行動のはずなのに、宮田にはその普段とは違った行為に対する明確な理由が思い浮かばないでいた。

(暑い…な………)

 当たり前だろう。身体の下の灰色の堤防は、強烈な夏の日ざしを受け、そのまま肉でも焼けてしまえそうな程だ。軽く瞑った目蓋の裏に見える色が、オレンジ色から赤や緑へと変わって行く。

 強烈な浮遊感が身体を包み込む。横になっていようが、本当に危険な脱水症状を起こしている時等は、目眩はやって来る。恐らくこのまま水分も取らずにこの場に横になっていれば、ものの数分もしない内に自分の意識は宙に舞ってしまうだろう。

 だが何故か、宮田は此処から動こうとは思わなかった。確固たる意志はまるで無いにも関わらず…何かを待ち望んでいるかの様に。

(待つ?一体『何』をだ…………)

 そもそも、この場で横になっている事事態が可笑しいのだ。それすらも分からないのに、今のこの曖昧な心理をどうやって理解出来ると言うのか。

 己の心なのに、その支配を完璧に出来ない危うさに、宮田は細く長い溜息を吐いた。

 ああ、だが、この危うさはけして不快なものでは無い………むしろ似ている、あの身を任せてしまいたくなるような、狭いリングの中、ぶつけ合う、拳と拳、眼差し、汗、そして…………………。

 

 一一一一一宮田君………

 

 ヒンヤリとした冷たいものが、宮田の首筋に押し当てられた。

 その急な感覚に宮田は驚く事も無く、何処かで当然の様に感じている己自身にこそ、驚きを覚えていた。

「宮田く…ん?」

 夢の中で聞いていたような声が、今度は現実の物として宮田の耳に届いた。

「宮田君?そんな所で転がっていたら、あっという間に干涸びちゃうよ?」

 何処か遠慮がちな、しかし何時までたっても目を開けない宮田に対し不安になったのか、徐々に耳もとに近付いて来る優しい声色に、未だ纏まらない意識のまま無造作に手を伸ばし、冷たい何かを押し当てていた手首を鷲掴みにする。頭上で小さく息を飲む気配がした。

「幕之内…」

 薄く目蓋を開けるとはたして其処には、逆光で些か見難くはあるが、軽い驚きに只でさえ丸く大きい瞳を更に丸くした男がしゃがみ込み、こちらを見つめていた。

「…あ、よかった、もしかしたら気を失っているんじゃ無いかと思ったけど、そんな事、宮田君じゃ有り得ないよね?ああ?!むしろ、邪魔しちゃったかな?でも、いくら水の側だからといっても、こんな所で横になるのは余りお勧め出来ないけど…も………」

 呼び掛けたのだから、目を開くのは当たり前のはずなのだが、至近距離で顔を見合わせ、しかも腕を掴まれている状況に、一歩は慌ててしまい、いつも以上にマシンガントークをぶちかましてしまう。しかし、いつもなら、そのトークの間に剣呑な光を帯びて鋭くなるはずの宮田の視線は、只こちらを純粋に見つめているだけで、穏やかなままだった。その珍しい現象に一歩の言葉は僅かに勢いを無くしていき、最後には口の中に消えて行った。

「あ…の?」

 まさか本当に日射病か何かで倒れていて、意識が曖昧なのだろうか?一歩の脳裏にそんな不安が又過る。

「何で…此処に?」

 低く掠れた宮田の声に、脱水症状を起こし掛けているんだな、と気が付いた一歩はさり気なく宮田の日陰になれる様に身体を前に倒し、更に宮田の顔を覗き込む格好になった。

「え?あ、ああ、今日はジムは休養日で、釣り舟屋も短い夏休み中なんだ。それで何も予定が無いから、たまには何もせずに磯釣りを楽しもうかと思って…」

 日の光が遮られ、見易くなった相手の顔に、散り々々になっていた宮田の思考が纏まって来る。どうやらほんの瞬きの間意識が飛んでいたようだ。その間に感じていた何かを掴めそうな感覚も、意識がはっきりとして来ると、霧散してしまっていた。

 己の首筋にあてがわれたものが、ようやく冷たい何かをタオルで包んだ物だと言う事に宮田は気が付いた。磯釣りに来たと言う相手の、クーラーボックスの氷か何かなのだろう。

「悪かったな……」

 そう言って何時の間にか鷲掴みしていた相手の手首を解放し、上半身を持ち上げようと腕に力を込めるが、途端に目の前に散る蛍光の黄色や緑や青に、思わず眉間に皺を寄せてしまう。

「あ、駄目だよ、急に身体を起こしちゃ…待って。」

 そう言って宮田の肩を押し、今の僅かな隙の間に差し入れたらしい氷り入りのタオルの上に首の裏が来るようにして寝転ばせる。そして宮田がまた無茶をしないように左手を肩の上に置きながら、右手で器用に傍らに置かれたクーラーボックスを開け、茶色い飲み物の入ったペットボトルを差出して来た。

 暑い夏に余り有難く無いはずの左手の接触に、肩から伝わる熱に、心地よさを感じてしまい宮田は意外に思った。不用意に人に触らせた経験は乏しく、思わず具合の悪い時等はいいのかもしれないと考える。

「中身は麦茶だから、余りウエイトには影響が出ないと思うけど、これを飲まないで動く事は、宮田君でも許さないからね!」

 只でさえふっくらとした柔らかそうな頬を、憤懣やる形無しと言ったように膨らまして睨み付けて来る一歩の表情に、珍しく苦笑を浮かべて宮田は素直にその指示に従う事にする。

 一歩からペットボトルを受け取り、キャップを開けて、ゆっくりと口に含んで行く。未だ横になったままで飲み物を口にする行為に慎重になりながら、身体にみるみる染み込んで行く水分を感じ取る。

 一歩はそんな宮田の様子を満足げに何度か頷きつつ、見守った。

 ふっと、先程まで刺さるように感じていた太陽光線が和らいでいる事に宮田は気が付いた。何が光を遮っているのかと、そちらの方に視線を向けると、その宮田の動きに気が付いた一歩が、何かな?と首をかしげつつこちらを覗き込んで来た。

 その一歩の姿に、宮田は思わずある衝動を押さえ込む事が出来なくなっていた。

「………く………くくくくくっ。」

「え?ええ?」

 突然そっぽを向いて肩を震わせ始めた宮田に、一歩は呆然としてしまう。

(み・宮田君が、声を出して笑ってる?!あの宮田君が?!!)

 一歩は度胆を抜かれた。宮田は普段めったに表情を動かさない。と言うか、不機嫌そうだったり、怒ったりの表情は以外とよく見て取れたが、笑ったり、喜んだりの表情がめったに面に表れないのだ。だからこそ、たまに見せる表情に、綺麗な物に存外弱い一歩などは、相手に顔を顰められてしまう程見愡れてしまう訳だが。

 まさかこの暑さで本当にどうにかなってしまったのだろうか?

 些か失礼な不安を抱きつつ、相手の笑いの発作が過ぎ去るのを一歩は大人しく待ってみる。数分笑い続けた宮田は、何とか、といった様子がありありと分かる態度で笑いを治め、一歩に向き直った。

「くっ、いや、悪かったな笑ったりして。その麦藁帽子、似合ってるぜ………何処ぞの中坊みたいでな。」

「ちゅう?!………………でも、この炎天下に、何も被らず、ましてや灼熱のコンクリートに寝転ぶような人よりは大人だと思うんだけど?!」

 何時もおどおどして発言内容も大人し目の一歩だが、童顔に見られる事はどうにも納得いかず、何時に無い強さでふんっとそっぽを向き皮肉なんて言ってしまう。

 一歩のその皮肉に、意外な一面を見たと宮田は片眉を上げる。

「言ってくれるじゃねえか……」

「あ・うぅ………」

 はっと我に返り、ギギィと音の立ちそうな動きで宮田の方を振返る一歩。

 だが其処には、思わぬ優しさを宿した瞳をした宮田がいた。

「ま、俺は嫌いじゃねえよ。」

 本当に珍しいと、一歩は思った。対ぞこんな穏やかな空気を纏った宮田など見た事は無い。

 パチリと目を瞬きつつ疑問に思っていた事をぶつける。

「………宮田君こそ、どうしたの?」

「ん?ああ…………」

 まだ、意識が朦朧としていた時に交わした会話の続きなのだろう。だが、宮田にはその質問に答えられるほどの回答を持ち合わせてはいなかった。

 敢えて言うとするならば、『何』かを待っていたのだとしか……そしてその何かは、恐らく目の前の脳天気な顔をしたこいつなのだと言う事を………

「たまにはそんな気分の時もあるさ…」

 こんな回答では、相手は納得する事は出来ないだろうと思いつつも、身を起こし、しれっとした態度で見つめ返した。

 はたして相手は、そんな宮田の台詞を口の中で何回か小さく繰り返し、ニッコリと微笑んだ。

「たまには、か。うん、そう言う事も、あるよね。」

 その笑顔に、何もかもがカッチリとはまり込んだような気が、宮田はした。

 カレンダーに偶然目がいってしまったことも、何時もと同じはずの返事も、何故かこの堤防に来て寝転がってしまった事も、そして此処が、一歩との冬の日のあの約束の場所だという事も、時々此処で磯釣りや夕涼みしていた一歩の姿を見付けていた事も、全部、たまには………

「手間取らせたな…サンキュー。」

 とても感謝しているとは思えない素っ気無い態度で、宮田は一歩に殆ど中身の残っていないペットボトルを突き返し、相手がそれをワタワタと受け取っている隙に身軽な動きで立ち上がる。

 何時もと同じくなんの未練も残していない様な颯爽とした動きに、どうやら危機的状況は脱したようだとホッとした一歩は、慌ててその背中に声を掛けた。

「あ!!宮田君!!!一寸、一寸だけ待って。」

 背後ににツンッと重さが掛かるのが感じられ、宮田は背中を振り向いた。

 其処には慌てた所為か、何も無い所でつま付きバランスを崩した一歩が、咄嗟に目の前にあった宮田のTシャツを掴んでしまい転倒する事は阻止出来て安堵したが、その代わりに己の掴んでいる物が何か悟り、サッと蒼ざめている姿があった。

(何かと忙しい奴だな……)

「あっご・ごめん、Tシャツに皺寄せちゃって。何処か破れなかった?」

「別に。それで?」

 宮田は常に無い己の行動を十分承知しており、気まずい、と言うか、本気で照れていたのだ。

 恐らくこの行動の目的であったと思われる人物の顔を見れた今となっては、この場から一刻も早く立ち去ってしまいたかった。

「あっ…あのですね…その…あの…」

 先程まで宮田に水分を薦めたり、皮肉を言っていたりした勢いは何処にいったのやら、途端にモジモジして自分の指をこねくり回して俯く一歩に、宮田は盛大に溜息を付いた。

「………一寸なんだろ?」

 言外に少ししか待ってやらないと言った宮田の態度に、旋毛を見せていた一歩は思いきったのか、顔を上げる。真剣な眼差しに、リングの上での彼を見たかの様で、宮田は思わず見愡れた。

「宮田君、誕生日おめでとう。僕は宮田君がこの世界に生まれて来てくれて、本当に凄く、感謝しています。」

 宮田と話す時は何時も忙し無く大きな声か、狼狽えて力無い声を聞かせてばかりいる一歩が、真直ぐに宮田の瞳を見つめ、その黒い瞳には、確固たる意志を浮かべ、ゆっくりと噛み締めるように穏やかな声を聞かせた。

 けして大きくは無いのに鮮やかに響く、穏やかで、優しげで、それでいて己を曲げない声………

 初めてスパーリングパートナーとしてリングの上で巡り会った時と全く変わらない眼差し。自身を真直ぐ捕らえてけして反らされぬ瞳。己だけを見つめる眼差し………

 

 一一一この声を聞いたのは今日はこれで2回目だな………

 

 何とも無しに浮かんで来た思考に宮田は何処で?と思った。

 夢だと感じていたあの呼び掛けは、確かに一歩のものだった。

 あの頃からまるで変わらない外見をした目の前の相手は、その心根の強さも何時までも全く変わらず其処にいる。

 否、変わらないモノを抱きつつ、あの頃より数段に柔軟に大きく成長している。

 変わっているのに、変わらぬ強さ………そしてその変化に少なからず自分が影響している事を宮田は理解していた。

 なにしろ、自分自身もどれだけこの童顔で弱々しく見える相手に影響されているか、身に染みて理解しているのだから。

 だが、その事実を、時に持て余す程の己の矜持により、素直に認められないでいた。変化が他人によってもたらされた等………

「お前な…去年も一昨年もその前の年も、恥ずかしいから止めろと言わなかったか?俺は。」

 変わらないはずの父との毎年のやり取り。

 其処に突如似た言葉を引き下げて現れた人物。

 聞けば何とも言えない心境になるのに、毎年その日には無意識に姿を捜してしまう事。

 父の台詞に思わず思い出し、微笑んでしまいそうになる己。

 

 全部『たまには』だからなんだ………

 いい加減綻びの酷い言い訳を再び心の中で呟き、溜息を付く。

 己の先程の台詞に、相手は又何時ものお決まりの台詞を返すだけだと分かり切っていても、何とも言えない座りの悪い感覚に、何か言わずにはおれない。

 そしてそのむず痒さをけして嫌がってなどいない自分を又自覚するだけ…

「うん、ごめんね?でも、宮田君がどんなに恥ずかしがっても、これだけは言っておかなくちゃ駄目なんだ。それに宮田君に言うのが駄目なら、宮田君のお父さんに言おうとしたら、宮田君もう口も聞かないぞって脅すじゃ無いか………」

「…………当たり前だろ。」

 ガックリと力が抜けたが、項垂れてしまう事だけは何とか堪える。一番最初の年にこの台詞を聞いた時は本気で倒れるかと思った程だ。

「でもね……本当は………」

 先程までいじけたような、拗ねたような顔付で宮田を見つめていた一歩は、水平線ギリギリを泳ぐ真白い船を見付け、それを眩しそうに見ながら言った。

「おめでとうなんて言っているけど、ありがとうだけを言いたいんだ。本当に。それ以外の言葉が見つからないからまず最初におめでとうを言ってしまうけど、今日も無事に生きていてくれて、ありがとうって………」

 今まで見た中で一番大人のような表情をして、自分の知っているどの幕之内一歩より大人びた表情をして。

「宮田君が生まれて来なきゃ合う事も出来ないっていうのに、それよりも今日も無事に生きていてくれた事が、こんなにも嬉しくて、毎日でもいいから、ありがとうって言いたいんだ。それはもう、本当に自分の為だけの行為なんだけどね………」

 こんなに我侭で自己中心的な考え恥ずかしいなぁ〜、と言って苦笑する一歩。童顔の中、不意に覗かせる事のある、何かを理解したような、諦め切ったような大人がする苦笑は何度か見て来た事はあるが、自嘲でもない純粋な苦笑は初めて見る表情で…

「ま…くのう…ち………」

 酷く掠れた声が喉の奥から絞り出されて、宮田はギクリとした。

「あ・あっははっ!!ごめんね?変な事言っちゃって。ああ?!勿論毎日ありがとうを言いに宮田君家に押し掛けたりしないよぅ〜」

 本当だよ〜!!なんて言って慌てる相手の顔には既に、宮田を思わず息込ませたあの大人びた表情は欠片も無く、いつもの太い眉毛を八の字に下げた情けない一歩の顔だった。

 心の許した相手には、何もかも曝け出しているようで、肝心な事はまるで悟らせる事の無い人物。寧ろ自身でも理解していないから、隠すのが上手いのかもしれないその表情の一端。

 垣間見せる事が出来るのは、相手がまた変化しているのだと言う事。

 己の懐の傷を見せながら、それでも笑っていられる強さ。

 毎年同じようでいて、けして同じ時など無いのだ。

 相手に影響されていないなど、確固たる揺るがない己を保っているなど、もうどの口を裂けて言えるだろうか。

 幕之内一歩に出会う事によって、今の宮田は宮田一郎になったのだ。

 それはもう、空気のように呼吸するように細胞の一つ一つに取り込まれ、染み付いてしまった。

 対峙する相手と較べると誠に小さな、それでいて厄介な矜持など持っていても少しも身にはならない。

「俺も………俺もお前が今日も無事、生きていてくれた事に感謝するぜ。」

 え?と一歩が宮田に視線を向けると、もうその背中は歩き始めていた。

「サンキュー、幕之内。」

 潮騒の風に乗って穏やかに聞こえて来た声に、一歩は瞬いた。

 一瞬聞き間違えかと思ったが、今日は色々な『たまには』が起こる日なのだ。

 たまにはこんな日もあっていいはずだ。

 ニヤケる顔を抑える事が出来ず、満面の笑みで、一歩は宮田の背中が見えなくなるまで見送った。

 遠くで主人を呼ぶ白い犬の鳴き声が聞こえて来る。

「あ!!ワンポー?!昼間は毛皮で暑いから、付いて来ちゃ駄目だって言ったでしょう?」

 主人に飛びつくように体当たりをし、バランスを崩して尻餅を付き届くようになった顔を舐め回していたワンポは、その台詞に罰が悪そうに耳を伏せた。

 飼い犬の可愛らしい仕草に、一歩は仕方が無いなと相好を崩して、イタズラっぽく囁いた。

「でも、付いて来ちゃったものは仕方がないから、氷でも舐めて大人しくしているんだよ?」

 クウ?と不思議そうに首をかしげる飼い犬に、一歩はとうとう声を上げて笑い出しながら言った。

「折角の『たまには』だからね!!」

 

 

 

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