走れよ流れ星・4

 

 

7・少し先の未来だった現在

 

 二人の間に、春も盛りを越え青葉の息吹を色濃く纏った強い風が吹き抜ける。しかし、目の前の男が発した言葉はそんな風に吹き飛ばされることも無く、真直ぐに鋭くセナに突き刺さった。

「え?」

 全く予想だにしない突拍子もない台詞に、セナは小さく聞き返すことしか出来ない。

 今、この人は、なんて言ったのだろうか?聞こえなかった訳ではない。きちんと、言葉の意味も判っている。けれども、それと理解は別物だった。

 優柔不断で決断力にも欠けるセナは、頭の回転も普通の人よりちょっぴり緩やかだ。しかし、決してそれだけが理由ではない。

「…十秒待ってやる。その間に出来るだけ遠くに逃げるんだな」

 セナにひどい混乱を与えた目の前の男は、そんなセナの様子をまるきり無視してどんどん話を進めていってしまう。

「え?えぇ?!」

 セナは只でさえ大きな瞳をさらに丸くして、戸惑った。あまりに事態が目まぐるしく動きすぎて、咄嗟に、言うべき言葉も、取るべき行動も、何も浮かんでこない。

「ほら、もう数え始めるぞ。待った無しの一発真剣勝負だ。いーち…」

「ええええええ?!!」

「にー…」

 判らない。判らないけれども、このまま数をかぞえ切られてあっけなく捕らえられてもいいものだろうか?

 セナがまだ理解とは程遠い状態にあるのは、数をかぞえているこの人にも、十分に伝わっているだろう。セナとは違い、凄まじいまでの頭の回転と、観察力を誇っている人物だ。しかし、いくらセナが戸惑い、混乱の境地にいて思うような行動が取れないでいると判っていたとしても、やると言ったことはやる人だ。

 このまま何もしないで、理解とも程遠い状態で、ただ捕らえられるのを待っているだけで、本当にいいのだろうか…

 真剣勝負と、この人は言った。何も恐れず、セナなぞ、小指の先を動かすよりも簡単に操れるようなこの人が、勝負と言ったのだ。

 ───何も判らないままで、何もしないままで、ただ捕まってしまうのは嫌だ。

 ひたすら混乱の境地にいたセナの中に、一つだけ、確固たる意志が浮かんできた。

 せめて、理解出来るまで。この人自身が見出してくれたこの足で、逃げ切って見せる。

 セナは、一度に沢山の事を決められない。しかし、一度一つの事を定めてしまうと、それだけに向かって脇目も振らない。

 ぐっと両足に力をこめると、大地を蹴り上げた。ぐんっと身体が慣性の法則に従い、その場に留まろうとする力がセナの身体を引っ張る。セナはその押さえ付けられる感覚をあっと言う間に振り払い、細くたなびく土煙を残しその場から駆け出した…

 

 

 

8・そして走っている

 

 セナはまず、何時もの習慣で何も考えずに駅に向かって走り出していた。しかし、途中ではっと気が付いた。

 駅に向かって、それからどうするのだろう…と。そのまま電車にでも乗り込むのか…そんな事は、出来ない。あの人は、その身を覆う武器を全て放り出し、身一つでセナに勝負を挑んで来た。挑まれたセナが、機械を使うなんて真似、自尊心が低くとも、全く無い訳ではないセナ自身が、許さなかった。

『そのボール、お前に預ける』

 不意に、セナにこの勝負を挑んで来た人の声が甦って来た。

 四月の冷たい雨に散々濡れたあの日、セナをシャワー室に連れ込み、身体を温め、そして着替えまで用意してくれたその人は、最後に、セナが校庭に置き去りにした筈の茶色いアーモンド型のボールを渡した。

 全身黒いぶかぶかの服に身を包んだセナは、そのボールを渡される真意が判らず、けれども、何だかボールを渡してくれた人に認められたような気がして、嬉しくなった。

 たったそれだけの行為で、その人は、セナに新たな世界をまた一つ与えたのだと、気が付いているのだろうか?

 そのボールを渡された次の日から、セナはそれを肌身離さず持ち歩き、放課後練が終わった後、自主的に黒美嵯川沿いの土手の上のサイクリングロードを走る事を習慣にしていた。それを始めてまだ日数が経っていないため、思い出すのが遅れてしまったが、あそこなら、人通りも少なく、道も見通しが良く、セナの俊足を十分に生かせそうだった。

 もう、勝負であんな悔しい思いは味わいたくない。セナの心はその思いで一杯になった。自分の全ての力を注ぎ込めたと思えないような勝負は、もう絶対にしたくない。

 それに、セナは、その人に、自分の答えを聞いて欲しかった。

 自分の答えを聞かせられないまま、また、新たな世界を与えられるだけなのは、嫌だった。

 走る事によって、セナは明確に、自分が今走っている意味を見出した。

 セナは、その人に言われるまま、混乱から抜け出せる前に駆け出してしまったが、漸く、その意味が心に落ちて来た。

「ヒル魔さん、僕は、負けません」

 セナに勝負を挑んで来た人物───ヒル魔の、自信に満ちた笑みを思い返しながら、セナは決意も新たに呟いた。

 

「なんで、ヒル魔さんっ………」

「ケケケケッてめえの考えそうな事ぐらい、俺の頭脳を持ってすりゃ、察するのは容易いんだよ!」

 セナが黒美嵯川の土手の上に辿り着くと、そこには既にヒル魔の姿があった。どうやらヒル魔は、セナの性格と思考を読んで、何を置かず真っ先に、この土手に駆けつけていたらしかった。セナが駅前へと遠回りしていた隙に、先回りは完了していたのだ。

「逃げるか?このお前の土俵で…」

 ヒル魔の姿を土手の上に見つけた瞬間、セナは方向転換しかけたが、ヒル魔のその台詞に、思わず踏み止まった。

 逃げる?ヒル魔さんから、僕が?

 ここを勝負の場に選んだのはセナ自身だった。そこから逃げるなど、セナには最早考えられなかった。

 ヒル魔さんと正面から対峙して、その脇を抜き去ってみせる。だって僕は、泥門デビルバッツのランニングバックだ!!

 セナは留まりかけた足を更に動かして、ヒル魔に向かってスピードを上げた。直前でスピンして、その腕に捉えられる前に抜きさってみせる…!セナの脳裏には、そのイメージが出来上がっていた。

 見る見る間に、ヒル魔の身体が近づいてくる。セナは、ヒル魔の利き腕とは反対側の左腕に向かってスピンをした。

 抜けた!セナがそう思った瞬間、がっちりと、身体を抱え込まれた。ガクンと、セナの身体を衝撃が襲う。

「あ…そんな、なんで…」

「てめえなら、勝利に貪欲な今のてめえなら、絶対に俺の利き腕とは反対側を抜きにかかると思ってたぜ」

「ヒル魔さん、僕!」

「駄目だ。勝負に勝ったのは、俺だ。セナ、捕まえた!俺が、捕まえたんだ」

 ヒル魔は、ギュッと、セナの細い体躯を折らんとするばかりに両腕に抱え込んだ。セナは、ギュウギュウに締められる感覚に、どう仕様も無い心地良さを感じながら、ずるいと思った。

「ヒル魔さん、そんな、ずるい!僕だって、僕にだって、ヒル魔さんに伝えたい事がある!」

 

 ヒル魔は、耳元で騒ぐセナの声に、クツクツと喉を鳴らした。

 勝負を、ヒル魔は持ちかけたが、それに付随する賭けは、実は余り意味の無いものだとヒル魔は判っていた。セナが勝っても、ヒル魔が勝っても、その結果に大差は生まれない事を、予測していた。

 ただ、主導権を、ヒル魔が握るか、セナが握るかの違いだけだったろう。

 それを予測していたとは言え、その予想が外れる事がなかった現状に、ヒル魔は喉を鳴らすのを止める事が出来ないでいた。

「賭けには、俺が勝った。てめえの返事は聞いてやらねえ。…そうだな、けれど、態度で示すぐれえは許してやるよ。どうする?逃げるか?」

「な!」

 こう言えば、セナが逃げ出す事が無いのを、ヒル魔は確信していた。気色ばんだセナの表情が、戸惑いに変わり、そして決心に彩られる。

 徐々に近づいてくるセナの表情を、ヒル魔は瞬きもせず、見つめ続けた。

 その表情の変化を真正面で眺めながら、ヒル魔は心の中で呟いた。

 そうだ、俺はただ、真正面から、お前のその決意を…俺の全てを攫って走るお前の姿を、目に焼き付けたかった。許す為に。

 許す為の覚悟を、ヒル魔はこの勝負に賭けたのだ。

 セナ、お前だけだ。

 俺の全てを、預けて走って良いのは、それを許すのは、お前だけだ。

 他人に走らせるのを善しとしなかった俺が、それを許すのは、唯一、セナ、お前だけだ。

 

 俺の全てを抱えて…走れよ、俺の流れ星。

 

 

 

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