貴方の笑顔を見たい 貴方の笑顔を向けられたい 貴方の笑顔を……………………
他の誰にも見せたくない
チョコレートスマイル
ざわめく人込みの中、キョロキョロと辺を見渡し落ち着きのない動きをする、ツンツンと奔放に跳ねた髪の頭が見え隠れしていた。 (うわーうわーどうしよう…凄く場違いなんじゃないかな?) 円らな瞳を眩かせ、人に酔ったのかまろい線を画く頬を薔薇色に染め、一歩は何とか人にぶつからずに歩くだけで精一杯だった。 (やっぱり、この時期にチョコレートを買おうなんて間違っていたのかも……) 2月に入れば直ぐに、街はバレンタイン一色に染まってしまう。 しかしここまで凄いとは、この時期のデパ地下など寄り付きもしなかった一歩にとっては、全くの予想外だった。 何処からがレジに並んでいる行列で、何処からが商品を見る為の人込みなのかも判別付かず、このままではそんなつもりは無くとも身体が密着してしまい、下手をすると痴漢と間違われそうな空間に、一歩はお目当ての物を目にする事も無く戦線離脱するしか無かった。
「はぁ、どうしよう………」 高いビルに囲まれた中の、ポツンと忘れ去られたような小さな公園のベンチに腰掛けて、ホットコーヒーの缶を両手で持ち、一歩は溜息をつきながら項垂れた。 只でさえ、男が甘い物を買うのにはとても勇気がいる。 ましてや、今やチョコレート売り場は彼女達の戦闘の場と化していた。人一倍不器用で恥ずかしがりやな自分には、一部の隙も入り込む余地は見えなかった。 「あ…さかむけ……」 手にした缶コーヒーのプルトップを開ける事なく、手の平の上で弄んでいた様をボウッと見つめていた一歩は、船仕事で水を扱う事が多く冬になると必ず荒れてくる指先に出来たさかむけを、無感動に引っ掻いた。 チリチリと走る指先の疼痛に、らしくもなく、一歩は苛立ちを感じる。 (多分、渡しても食べては貰えないんだろうけど…) 毎年、2月14日には、鴨川ジムに大量の包みが届けられる。現役プロボクサーに食べ物は厳禁と分かっていて中にはタオルだのスポーツ用品も混ざっているが、包みの中身は大体チョコレートだった。その数を競い合っては、知名度や果たした業績の大きさからか毎年1位に輝き誇らし気にしながらも、それらは彼の胃袋に収まる事は無かった。 それでも男の自尊心が満たされるのかひどく嬉し気に自慢し回っているその姿に、羨ましさを押さえる事が出来なかった。 彼に抱えられた、甘い匂いを放つ物を堂々と渡せて受け取ってもらえる彼女達に…だ。 好意を明け透けに示せて、尚かつ認めてもらえるのだ。通じる事は無くても受け留めてはもらえる。 一歩の唯一の慰みとしては、それらの物が彼の口に入る事が無いと言う事実だけだ。そしてそんなことにホッとしている自分に自己嫌悪と苛立ちが積もるのみ。 荒れた男らしい指先に、今まで何も不満を抱いた事は一度も無いが、毎年この時期だけは、可愛らしい女の子の手であれば自分だって…と何度思った事か………
だが、今回は事情が違っていた。 信じられない事に、憧憬とそれ以上の感情を抱いた相手と、恋人同士と言われる関係になって始めて迎えるバレンタインデー。 普段口で上手く伝えられない分、態度で示そうと、一歩はチョコレートを求め街に出て、結果は先程の惨敗だった。 だが一歩は、チョコレートを手に、嬉しそうに笑う彼の姿が目に焼き付いて離れなかった。 (僕もあんな風に笑って貰いたいな…) 男の自分が渡しても、あの人の事だから気持悪い事は止めろと言われそうだったが、それでも毎年恨めし気に見つめるだけだった事が、出来るかも知れないのだ。 (どうしよう…多分、コンビニとかでも、売ってはいるんだろうな…) だが、今までの思入れが強い分、一歩はそこら辺で簡単に手に入るものを渡すのは気が引けた。何より、鷹村は本当に沢山の高級そうなチョコレートを貰う。そのチョコレート達にも負けない気持を一歩は持っているつもりだ。それなりの物を渡したかった。 「だけど…だよね………」 はぁ…重苦しい息と共に頭が下がる。 「お兄ちゃん、具合が悪いの?」 え?と顔を上げた先には、可愛らしい声の通りの可愛らしい女の子が、一歩の目の前に立って心配そうにこちらを見つめていた。 「あ、違うよ。ごめんね?心配してくれたんだね。ありがとう」 小さな女の子の優しい気遣いが嬉しくて、一歩はツインテールに結ばれた女の子の頭を撫でながら、ニッコリと微笑んだ。 まるで鏡のように、一歩の顔に広がった微笑みを見て女の子の心配そうな表情も、満開の笑顔が浮かぶ。 「元気出してね、お兄ちゃん。チョット早いけど、バレンタインのチョコあげる!!」 はい!と元気良く差出された小さな箱から飛び出した、小さなチョコレート菓子の粒を手の平で受け止めて、一歩は目を白黒させる。 「お兄ちゃんの笑った顔、好き!!」 照れたようにはにかんで見せて、女の子はそのまま駆け出して行ってしまった。 どんどん小さくなる背中に、一歩は慌てて声を掛ける。 「チョコレート、ありがとう!」 女の子は少し振返るとバイバイと手を振った。一歩も小さく手を振り返すと、その姿は公園の門の向こうへと消えていった。 残ったのは、手の平の上の可愛らしいチョコレートの粒が三つ。 小さな小さな…それでも、女の子の暖かな気持は十分伝わって来ていた。 姿形がどうしたと言うのだろう…肝心なのは気持なのだ。 「鷹村さん…」 彼を…鷹村を思う気持は誰にも負けていないつもりだ。 小さな三粒をゆっくりと味わうと、もう仄かな暖かさしか無くなったホットコーヒーを一気に飲み干す。 一歩は勢い良くベンチから立ち上がると足取り確かに、公園を後にした。
缶コーヒーの仄かな優しい暖かさが胸の内に宿った。
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