阿部隆也片恋中

 

 

 阿部隆也は只今思春期真っ只中の高校二年生です。この時期の少年少女がもれなく甘かったり酸っぱかったり苦かったり塩っ辛かったりを味わう恋を、野球一筋十六年、産まれた時からナイター中継を子守歌に育ってきた阿部少年も、味わったり噛みしめたりしてしまっているのです。

 彼は高校生活三年間を、これまでの短い人生と同様に、野球にそのほとんどの時間を費やそうと考えていたので、この恋はまったくの青天の霹靂でした。

 しかもその相手がまた、大問題どころの相手ではありませんでした。

 阿部少年の想い人はとっても繊細な感性の持ち主らしく、またとっても自己に対して思慮深く遠慮深い………オブラートに包んだ回りくどい言葉でなく、簡潔に一言で表すと、つまり、小心者なのです。

 自分に今ひとつ自信が持てないらしい想い人は、阿部少年がごく普通に話し掛けただけなのに、怯えて吃ってしまいます。好きな人に怯えられて嬉しい人なんていやしません。例に漏れず阿部少年も、想い人に怯えられ吃られてしまうと、ショックの反動か、ついつい苛々としてしまいがちです。その苛々が、繊細な感受性を持ち合わせている想い人にも敏感に伝わってしまうらしく、その上手く動かない口を、ますます吃らせてしまうのです。

 元来何事も簡潔にはっきりと素早く無駄無くが好きな阿部少年は、マイペースで自分時間でしか生きられないらしい不器用な想い人とは、相性が良くないのです。

 その所為か、阿部少年と想い人が一対一で話すと、大抵会話が成り立ちません。

 しかしこれは、想い人の怯えからくる吃りの所為だけではありせん。阿部少年がこっそりと、恋から来るありがちな愚かな行いで、ついつい想い人と他人が会話しているのを盗み聞きしたときも、そのほとんどの内容が理解出来なかったので、想い人の言葉運びと思考経緯が特殊であるとしか言い様がないのです。だって阿部少年は、他の人と話すときは、その会話の内容が理解出来ないなんてこと、ありませんもの。国語の成績はあまり芳しくはないのですが、自分の読解力はごく一般的なものだと阿部少年は思っています。

 想い人と他人が会話していて、その会話が阿部少年には理解出来なくとも、当人達の間では、実はなんの問題もなく成立している事実が少なからずあったとしても、阿部少年はその事をあまり認めたりがりません。だってそうですよね?自分が好きな人が、自分以外の人とは仲良くやっているなんて、全然嬉しい事じゃありません。

 

 しかし、阿部少年のこの片恋の一番の大問題は、小心者の想い人ではなく、想い人と仲の良い人間でもなく…実は阿部少年自身でした。

 

 阿部少年は、この想いを長い間、恋と認める事が出来ないで居ました。まず想い人の第一印象があまり…というか、かなり悪かった事が原因の一つです。絶対に友達にはなれない(もしくはなりたくない)タイプだな…と思ってしまったのです。

 想い人は、阿部少年がこれまで出逢って来たどの人物にも当てはまらない、実に特殊な思考回路と性格の持ち主でした。阿部少年にとってそれはまるで宇宙人にも等しく、異文化コミュニケーションどころの比ではなかったのです。まだ、某映画の中の指先と指先で交流を深めるあの異星人の方が、相互理解が可能に思えたくらいです。

 でもその宇宙人は、阿部少年が求めて止まないものを持っていたのです。ほぼ100発100中の正確無比なコントロールに種類の豊富な変化球。そう、宇宙人は阿部少年の求める最高の理想の投手だったのです。

 ここで、おや?と思った貴方。高校野球は何時から、女子生徒の参加を公式に認めたのだろう…と思いましたか?いいえ、違うのです。残念ながら現在財団法人日本高等学校野球連盟───略称:高野連では、女子生徒の公式試合での選手登録は事実上認めてくれてはいません。そうです。阿部少年の想い人は、実は、同学年の少年で、しかも、捕手の阿部少年とバッテリーを組んでいる投手の、三橋廉でした。

 捕手と投手の親密で濃密な関係を比喩して、バッテリーの事をよく夫婦と表しはしますが、阿部少年はシニア時代の苦い経験から、投手という存在にコンプレックスを抱いておりました。本人は思い出す度に、苦く痛く辛く、そして少しの憧憬を味合わせるその経験を、必死に引きずっていないぞ!と表面上取り繕ってはいましたが、それを完全に吹っ切れてしまえるほどの老獪さはまだなく、本人が思っているほどには大人になりきれてはいなかったのです。なので、高校野球部員同士として初日に顔を合わせたその少年を、投手というポジションと聞いただけで無意識下に警戒してしまっていたのです。そこに三橋少年は、阿部少年が今まで出合った事が無いタイプの性格をしていたので、印象は見事に最悪になってしまいました。

 阿部少年の目の前で、ビクビクおどおどと震え、視線は一切合わず、この年になっても人前で呆気無く涙を零す三橋少年は、阿部少年の苛立ちの壷を妙に突いてくれるヤなヤツでした。初対面では誰でも相手に与える印象はより良いモノにしておこうと、猫を被ってみたり、あたりを丁寧にしてみたりするものですが、阿部少年はこの時、三橋少年のあまりの有り様に、思わず素で『お前マジでウザイ!』とストレートに言ってしまうくらいには、敬遠したいタイプとしてインプットされてしまったのです。

 バッテリーとして初めて硬球をやり取りした時、阿部少年は三橋少年の投球コントロールの正確さは認めましたが、三橋少年の人格自体は、自分よりは下の存在だと思ってしまいました。これからそれなりの時間を苦楽を共にして行く部活の仲間に対し、上も下も無い筈ですが、過去の経験から、投手不信とも言える阿部少年の投手に対するコンプレックスが、まだ知り合って数十分しかたたない三橋少年の事を、そう判断させてしまったのです。

 如何にも子供っぽい傲慢極まりない判断ですが、この時阿部少年は自分のその幼さを自覚してはいませんでした。三橋少年の表面上の気弱な態度だけを判断基準に、三橋少年の正確無比だがそれを生かす事が出来ずにいる遅い投球を、自分だけが思考した、自分の理想の野球の実現の為に『使ってやる』と考えていました。自分が使ってやることで、中学時代負け続けたらしい本人曰く遅い球のダメピは、勝てる本物のエースになれるのだし、それにはこのうじうじオドオドとした相手の思考は邪魔にこそなれ、必要なものではないはずで、それを否定して何が悪い…。阿部少年の遺憾無い意見はそんな所でした。それは相手の人格を全否定する酷い思考の筈でしたが、投手にいい印象を抱いていない阿部少年にとっては、それはあたりまえの判断だと思っていたのです。

 後にあまりに自分勝手なこの思考に気付き、阿部少年は自分の幼い傲慢さに七転八倒する訳ですが、三橋少年に対する阿部少年の最初の印象はこんなものでした。

 この最悪な印象が、反転するどころか、一周してそれを突き抜け、一気に尊敬の域に行くまでに、そう時間はかかりませんでした。阿部少年は元来そんなに驕った考えの持ち主ではありません。努力している人間は素直に認めますし、相手の身になって心境を慮ったりすることの出来る少年です。それは少々自分本位的な思考に寄りがちになってしまったりしていますが、それはまだ、少年と言える年齢を考えればいた仕方無い事です。

 三橋少年の正確無比なコントロールを手に入れるまでの痛ましいほどの努力は、ちょっとしたきっかけですぐに阿部少年の知れるものとなったのです。

 それ以降、阿部少年の三橋少年に対する印象は、ヤなヤツから一気に凄い奴になりました。バッテリーが互いに互いを尊敬し合える関係は、まさに理想的な夫婦像でした。阿部少年は、三橋少年の事を解れたこの時から、自分だけの野球ではなく、本当の野球が出来る素晴らしさを噛みしめる事になったのです。

 しかしその素晴らしさを純粋に味わえる期間は、そう長くは在りませんでした。

 解り合えたと思えた三橋少年と対峙すると、阿部少年は、どうしても苛立ちを押さえる事が出来なくなっていたのです。

 あの時、あの見知らぬ校舎裏の雑木林の草むらの中で、様々な変化球を投げる為にぼこぼこのごつごつになった指先を握り締めたとき、確かに三橋少年を解ったと思えたのに、その感覚は、すぐに阿部少年の両手の指の隙間から零れ落ちてしまいました。

 三橋少年は、何時も阿部少年に何かを伝えたそうにしてくれます。阿部少年もそこまでは解るのに、その先の、何を伝えたいのかが容易には理解出来ません。それなにの、阿部少年と三橋少年の間に入った第三者にはそれがすぐに伝わるのです。

 それは、阿部少年の苛々を増大させました。阿部少年だって、せっかく出逢えた互いを尊敬しあえる素晴らしいバッテリーと、スムーズにコミュニケーションを図りたいと思っているのに、三橋少年を解ったと思う前と、現状はあまり変わり無いことに、少なからずガックリしていたのです。それが、同じ部活の仲間ではありますが、バッテリーでもない第三者が三橋少年伝えたい事をスッと理解し、恋女房と呼ばれる事もある筈の捕手が、投手の伝えたい事を一番に理解出来ないなんて…

 阿部少年はままならぬ現状に、つい苛立ちを押さえることが出来なくなっていました。それでも、ただ、苛立ちを抱えているだけならよかったのです。

 でもある時、それは唐突に阿部少年に訪れました。

 何時ものように部活の練習中に三橋少年が阿部少年に何か伝えようと吃っていると、何時ものように部活の仲間が、三橋少年のフォローに入ってくれました。

 それは部活の練習中に一日に一度はあるような、よくある光景でしたが、その時阿部少年がとっさに心の中で叫んだ言葉は何時もと違っていました。

 コイツが俺に話してきてんのに、勝手に解釈して間に無理矢理入ってくんなよ! 俺とコイツの時間の邪魔をするな!! 三橋も三橋で誰にでも、そのキラキラ目を向けるんじゃねぇ! 最初にその目でお前が見たのは、この俺だろ?!!

 それは、あんまりと言えばあんまりな感情でした。仲間は、阿部少年と三橋少年の会話がスムーズにいくように、親切にも潤滑剤の役割を果たそうとしていてくれたのに、阿部少年はそれを邪魔に思ってしまったのです。

 それは、焼け付くような独占欲と嫉妬の叫びでした。

 心の中でそう叫んでしまってから、阿部少年は『しまった』と思いました。

 コミュニケーションが上手くいかないだけの苛立ちならまだよかったのです。それはたあい無い人間関係のなかでもよく生まれる苛立ちで、その相手と上手くやっていきたいという現れでもあったので、部活の仲間に対して抱く感情としては、まだ真っ当なものと言えました。

 しかし今阿部少年が心の中で叫んだ台詞は、非常にまずいのです。

 これではまるで、彼女と二人っきりの時間を邪魔され、あまつさえその彼女が自分よりもその相手と楽しそうにしているのを目の当たりにした妬きもち焼きの彼氏の言様のようではありませんか!

 阿部少年は焦りました。ここでその事実を認めてしまえば、今まで必死に見えないフリをしていた様々な苛々の中身全てが、ここに直結して来てしまいそうで、多いに慌てました。

 阿部少年はまだ少年でしかなく、しかも自分で思っているよりもさらに大人ではなかったので、好きな人を素直に好きと認めてしまえる度量は無く、また、その好きになった相手が男だからそれがどーした? と開き直ってしまえるほど分別の無い子供でもなく、つまりは、中途半端。思春期まっただ中の複雑なお年頃なのです。

 これが、阿部少年の片恋を大問題にしている一番の要因でした。

 これは違う、これは違う、これは違う。阿部少年は必死に自分に言い聞かせ、カ行の最後、ア行2番目の言葉を必死に打ち消そうとしました。時にはそれも成功しましたが、三橋少年を前に、その思い込みの大半は上手く行きませんでした。

 そうして阿部少年は、その感情を認めないまま、恋する男にありがちな愚かな行いをする日々を送るハメになってしまったのです。

 それでも、そんな思春期な阿部少年の必死な…ぶっちゃけ言ってしまえばある意味意気地のない抵抗は、やっぱりある日、その想い人である三橋少年に、あっさりと壊されてしまうのです。

 

 

(〜〜〜阿部隆也の回想〜〜〜)

 

 こうして僅かな時間重なる通学路を、コイツと二人で帰るようになってどれぐらい経つだろう。たまたま雨の日に、たまたま三橋が傘を忘れ、たまたま親の迎えも期待出来ず、たまたま俺が大きな黒い傘を持っていた…そんな些細なきっかけから習慣化した日常の一つだった。

 その時、たまたま───本当にたまたまだったろうか…だが、俺はたまたまと判じた───俺の手の平が三橋の手の平に触れ、何時もの瞑想の癖か、指をギュッと握り締めてしまった。その瞬間、三橋の指先から色々なものが俺の身体の中に伝わって来て、俺はその何とも言えない充足感? 満足感? とにかくそう言った感覚に満たされ、息をつき、そうしてそっと三橋の様子を少し斜め上から覗き見た。いきなりの俺の行動に珍しく驚いた様子も怯えた様子も無く、斜め上から覗けた薄茶色の睫毛の奥、その穏やかな瞳の様子を認め、指先がほんのりと暖まっていく温度を感じ………そうしてその繋いだ手を離せなくなってしまった。

 その日、三橋家の前に辿り着いた俺は態とらしく、指先のタコが大きくなったな…その調子ならこれからの練習量はこう、だの、爪のマニュキアが剥がれかけてたぞ、さかむけもあったから爪切りでちゃんと切れよ…などと言って、掴んだ指先を離さなかった理由を無理矢理そう作った。それは三橋に言い聞かせながらも、自分にも言い訳を作ってるんだと、頭の何処かでは解っていたが、俺はそれに蓋をした。

 今までも、試合中や部活中に手と手を合わせ、相手や自分の様子を伝え合う事を実行して来ていた為、三橋には今回の接触にも不信に思うものは無かったらしい。俺の態とらしい説明にもいちいち頷き、例の、阿部くんは凄い! のキラキラ瞳を向けて来た。

 

 それ以来、三橋と下校を共にしながら、時々手を繋いで帰ることがある。

 

 今、俺の目の前でゆらゆら揺れる指先は、何時もの見慣れているものとは違い、黒い少し使い込んだ感のある毛糸の手袋が嵌められていた。それを俺は落ち着かない気持ちで眺める。落ち着かないのならばそれを視界に入れなければいいだけの話しなのだが、俺がこの指先を気にする事は既に日常の一部として摺り込まれ、強力な習慣として根付いていた。

 目を閉じなくても、その黒い毛糸の中に包まれている指先の様子が思い浮かぶ。その指先は、冬の寒さと乾燥と、そして激しい度重なる投球練習により夏の頃よりも微かに荒れ、そして紅く色づいていた。その紅さを見ると、衝動的にその指先を奪い取り、己の両手で包み込んであっためてやりたくなり、次いですぐに、同性の同級生にするような事ではないと打ち消し、それでも、バッテリーならば、投手の指先のコンディションを気にするのは当たり前の事ではないかと誰かが耳元で囁き、しかしそんな事は出来ないと、けど、手を繋ぐくらい別に変な事じゃ…いや、変か?…そんなことを延々と考え、ある下校時、思い切って言ってみた。

「三橋、お前手袋つけろ」

「えっ?う…?て ぶくろ?」

 たったこれだけを言うのに、何日も逡巡する俺は、もう……… しかし今はそれ以上は考えずに、キョトンとしてこちらを振り仰いだハシバミ色の瞳を見返す。

「手袋。お前、寒さで余計に指先荒れてんだろ。投手なら、自分の指くらいもうちょっと労ってやれよ」

「あっ…う、ごめ、お、オレ、てぶくろ、持って…な………」

 心底申し訳なさそうに、胸元でキュッと握った両手を見るように、俺を真っ直ぐに見つめていた目が伏せられる。

 そんな三橋の様子に、俺はああ、もう、と心の中で溜息を吐きながら、自然に、己の茶色のダッフルコートのポケットの中に突っ込まれていた黒い毛糸の手袋を差し出していた。

「俺の使い古しで悪いけど、これ、オマエにやるよ。ワゴンで三組千円の安物だけど、結構あったかいぜ、それ」

 三橋は目の前にいきなり突き出された黒い毛糸の塊をパチクリと眺め、そうして伏せていた瞳を上げ、俺をパチクリと眺め、そうして突き出された俺の腕を追い、再び黒い塊の所でパチクリとさせた。

 きょときょととした三橋に、ん。と俺はそれを促す。三橋は俺のそんな態度に押されてか、恐る恐ると言った風情で黒い手袋に指先を伸ばし、そして躊躇った。

「でも、オレがこれ、もらっちゃったら、阿部くん…は?」

「言ったろ?ワゴンで三組千円。家にもまだあんの。今はこれしか持ってねーから、俺のお古で悪いけど、無いよりゃマシだろ?」

 そこでようやく、三橋は最後の躊躇った距離を縮めた。俺の指からそっと黒い手袋を抜き取り、チラチラと俺を伺いながら、その手袋を嵌めてみせた。

 ほっこりと、ゆるく、その表情が綻ぶ。

「ほんと、だ。このてぶくろ、あった かいね」

 三橋の顔の前に、ふわりと白い息が舞う。黒い毛糸の手袋は俺にも少し大きいくらいで、三橋の指に嵌められても、やはり大きいらしく、指先が余っていた。

 その指先を、むにむにと掴み、付け心地の良いように整え終えた三橋は、にっこりと、本当に何の怯えも気兼ねも遠慮も無く、にっこりと穏やかに自然に笑み、阿部を真っ直ぐに捉えた。

「阿部くん。あり がとう」

 

 それが数日前の出来事だった。

 それ以来、三橋は俺のやった俺の手袋を嵌め続けている。

 三橋がその手袋を嵌めた日から、俺は三橋の手を握っては居ない。部活中には勿論瞑想がある為、これまでと同じく接触はあったが、下校時のそれは無くなった。

 何故なら、手袋の上から三橋の手を握った所で、三橋の指先のコンディションは知れないからだ。まさに無理矢理作った自分への言い訳は見事に消滅してしまった訳だ。手袋の上からでも、手を繋げばその温もりは結構伝わるだろう。だが、温もりを知る為だけに手を繋ぐ事の上手い言い訳を、俺は見つけられないでいた。

 それに、三橋と手は繋げないが、三橋の指先を覆っているのは、俺が昨年の冬まで結構愛用していた手袋だ。愛用していたからこそ、毛糸の手袋は使用感に溢れ少し草臥れていた。去年まで己の手に嵌められていたそれが、今は三橋の指先を暖めている。その現実が、俺をどう仕様も無く落ち着かない気持ちにさせていた。

「あ、あ、あの、あの、あ、阿部くん」

 じっと三橋の黒い手袋が嵌められた指先を眺めていた俺は、三橋のその呼びかけに、少し反応が遅れてしまった。

「……ん?ああ、なんだ、三橋」

 一瞬、俺が三橋の指先を凝視していたのを気取られたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。何やら緊張した───コイツはいつでも大抵俺に対し緊張しているフシはあるが、それでもこの下校を始めてから大分落ち着いて来ていたのだ───様子で、激しくつっかえながらも言葉を続けた。

「オレ、メイワク…」

「何が迷惑だって?」

 またなにか、突拍子も無い事…そう、例えば、阿部くん キャッチャー 止める? のような衝撃的な台詞を言うつもりだろうか? そうだったら速攻梅干ししてやる! 俺は内心そう戦々恐々としながら、三橋を促した。あの時のあれは、もう二度と味わいたくない衝撃の瞬間だった。

「違っ! オ、オレ、メイワク かと、思ったけど、阿部くんのてぶくろ、嬉しくて、でも、阿部くん は、てぶくろしてないで………それで、オレ、オレ、あの、これ…………」

 左の肩から提げられた肩掛けの鞄の中から、ゴソリモソリと出されたそれは、少し皺の寄った白い紙袋。三橋はそれを取り出し俺に向かって差し出した。

「ん? 何コレ? 俺にくれんの?」

 その差し出された紙袋を指差し俺がそう尋ねると、三橋は凄い勢いで首を縦に振り頷いた。その勢いに、思わず首取れんぞと俺が言うと、三橋はギクリと首の動きを止め、そして、ハッとしたように言った。

「阿部くん、誕生日、おめでと う!」

「あ……………、これ、もしかして、俺の誕生日プレゼント?」

 俺は思わず呆然とし、おそらくよっぽど驚いた顔をして言ったのだろう。三橋は少し不安げな様子になり、そっと尋ねて来た。

「え、阿部くんの誕生日、12月11日だよ、ね?」

「ああ、うん。そう。そういや、今日だったか。………よく、知ってたな」

「篠岡さん に、教えて もらったん だ」

「そう、そうか……」

 未だに引っ込み思案で、自分から誰かに何かを尋ねるのに、偉い労力を使う筈のコイツが、同じ部活の仲間とは言え、女子の篠岡に何かを尋ねた…しかもそれは、俺の誕生日を知る為と言う………ジワ、と、目頭に熱い何かが浮かんで来る。

 ああ、畜生、これはヤバい。これはマズいんだ。俺の、閉じた蓋を、これ以上壊してくれるなよ。

「もらって、くれる?」

 何時まで経っても差し出した紙袋を受け取らない俺に、やっぱりメイワクだったかも、と潤み始めたハシバミの瞳に操られるように、俺はその紙袋を受け取っていた。

「三橋………サンキュ」

 妙に、感情がこもった声が俺の口から飛び出ていった。俺の声は、こんな、やけに甘っちょろい、でれっとしたような声だったろうか。しかし三橋は俺のその言葉に、ほっと息をつき、そして何時かのようににっこりと、自然に華やかに笑ってみせた。その頬が紅く染まっているのは俺の目の錯覚だろうか…それとも、寒さの所為だろうか………俺は、その紅味は俺がもたらしたものだと思いたがっている。元から蓋をしきれていなかった感情が、外へ外へと溢れたがっている。

 ああ、駄目だ、顔が、勝手に緩んでいく。

 俺は、余程嬉しそうな顔をしたらしい。三橋の表情は見る見る間に、歓喜に彩られ、頬はますます紅く輝いた。

「あのね、阿部くん、オレ、テブクロ、ほんと に、嬉しかったんだ。だからオレも 少しでも、お返ししたくて。でも、阿部くん、あの後、テブクロしてるとこ、見た事なかったから、オレ、その」

 やけに饒舌になった三橋に、俺はうん。と一つ頷きながら聞いた。

「これ、今開けていいか?」

「い いよ!」

 シンプルな白い紙袋の裏の口には黒字に金で英字が書かれたシールが貼ってある。筆記体で書かれたそれは、Happy Birthday. 細かい演出に思わず笑みが零れる。雑貨屋でよく使われる薄手の紙袋の口を指でビッと破り、中から出て来たものは、紺色の手袋だった。

 その手袋は太めの毛糸で重量感たっぷりに編んであり、しかし重さを感じさせない為か紺色の中に何本か白い糸もランダムに混ざり少し毛羽立っていた。俺が三橋にやった、まるで軍手のような黒い手袋よりも数段に暖かそうで高そうなその手袋は、前の手袋よりも俺の茶色のダッフルによく合っていた。

 俺はその手袋を早速両手に嵌めた。手袋の中は外よりもなお毛羽立っており、触り心地は最高のものだった。

「これ、オマエが選んだのか?すげーあったかいよ」

 三橋は俺に嵌められた紺の手袋を見て、にこにこと嬉しそうにした。

「う ん。このテブクロ、見つけた時から、阿部くんの テブクロだなって、思った んだ…!」

 本当に嬉しそうに笑う三橋のその手にも、俺の上げた手袋が嵌められていて、俺はこの落ち着かない感情を、とうとう認めた。認めるしか無かった。

 そうだ、俺は、俺の手袋が…他の誰のものでもない俺の手袋が三橋の指をあっためて、嬉しかった。そしてそれ以上に、俺の指で直接、三橋の指をあっためてやりたかったのだ。だからこの糞寒いのにもかかわらず、三橋に手袋をやってから、俺は新たに手袋を引っ張り出す気にもならず、クローゼットを漁るのを止めたのだ。

 俺の手を温められて素直に嬉しいと表現出来る三橋が恨めしい。単純にそれだけなら良かったが、俺には下心が多過ぎた。あの時とっさに三橋にやった俺の手袋は、考える前に俺の欲望が素直に行動に移した結果だった。三橋の世話を色々と焼く事はもう俺の本能に等しいが、そこまで純粋な訳では決して無い。あんまりにあんまりな感情に、迷わずそれに蓋をしてみたものの、結局はその蓋は外れやすかった。それほど、その感情は強いものだった。

 そこに潜む下心に蓋をし続ける事は、俺にはもう適わなかった。蓋をずらしたのは三橋だったが、最後にそれを開けて落として壊したのは俺の意志だ。俺はもう、この感情を否定し続ける為のエネルギーを使い果たしてしまったんだ。

 三橋が、あんまりにも、俺に対して無防備に笑うようになってしまったから。

 そんな極上な栄養を与えられて、この想いが育たない訳は無い。

 

 俺は、三橋廉に、片想いしている。

 

(〜〜〜阿部隆也の回想終わり〜〜〜)

 

 

 そんなこんなで、にっちもさっちもいかなくなってしまった若い少年は、とうとう己の恋心を認めるに至ったのです。初めてこの感情を覚えたのが初夏の頃でしたから、半年間、よくもまあ、意地を張り続けたものだとは思ったものですが、年頃の高校生が同性を好きになってしまっただなんて認めるには、清水の舞台から飛び降りるよりも大変な事だったでしょう。

 その後阿部少年はどうしたかと言うと………どうもしませんでした。以前からの恋にありがちな愚かな行動を、それと自覚して繰り返してしまうことは多々ありましたが、現状に変化はあまりあまりませんでした。まあ、恋心を自覚するにあたって半年もかかってしまう阿部少年では、そう急激に何かが変わるような行動を取れという方がどだい無理だと言うものでしょう。

 そうこうしているうちに、一年生は二年生になってしまい、4月には新入生も入学し、去年、一年生だけのチームだというのに大会で華々しい成績をおさめた西浦高校野球部は、そこそこ有名な野球部になっていました。そうなると、当然増えるのは新入部員です。元から賑やかだった野球部は、ますます賑やかになりました。

 沢山の新入部員と聞いて、阿部少年の小心者の想い人、三橋廉は、新たなポジション争いに、眠れない不安な日々を過ごすのかと思いきや、そうではありませんでした。たしかに沢山の後輩を前に、おどおどと行動は落ち着きがありませんでしたが、一度ブルペンで構えれば、スッと投球練習に集中し、人数の増えた野球部内で紅白に分かれて練習試合をすれば、マウンドにキッと凛々しい様で立ち、見事なコントロールと、一年生時よりは格段に上がった球速で、西浦高校野球部のエースとしての貫禄を魅せました。

 恒例になった感のあるゴールデンウィークの合宿を終え、まだ正式にレギュラー発表はなされていないものの、今年も西浦のエースはおそらく三橋少年で決まりでしょう。

 この結果は阿部少年にとっては当たり前の事でしたが、意外に思ったのは三橋少年が後輩に対し必要以上に怯えなかった事でした。去年一年間で、必死に三橋少年に教え込んだ、オマエがエースだ。は、キチンと実を結んでいたようです。

 三橋少年のこの変化に、内心阿部少年は誇らしさと、それ以上の満足感で一杯でした。三橋少年にこの自信を与えたのは、他でもない阿部少年だという事を、十分に味合わせてもらったからです。これには阿部少年の独占欲も多いに満たされました。だって、何時でも自分に自信がなく、自分を信じられないでいた三橋少年をここまで育て上げたのは、まぎれも無く阿部少年の影響です。

 三橋少年の理解不能で複雑怪奇な思考を先読み出来る優しい仲間達ではなく、意思の疎通がままならなく怯えさせてばかりだけれども、三橋少年に与える影響は自分が一番大きいのだと証明された気分でした。

 そんな訳で阿部少年はここ暫く非常に浮かれてしまっていたのですが、最近はそうも言ってられなくなって来ました。

 何故かって? もうすぐ、5月17日が来てしまうからです。去年は、まだこの想いを自覚する前に呆気無くその日は過ぎ去ってしまいました。自覚するどころか、その頃はまだ、純粋に三橋少年の努力を尊敬し、その努力を何としてでも花開かせてやろうと使命感に燃えていましたから。あの頃は、俺も純粋だった…としみじみするのは置いといて、自分の誕生日に、あんなにあったかく嬉しい贈り物をくれた想い人に、自分もあんな想いを味合わせてあげたいと、阿部少年は悶々としていました。

 しかし、阿部少年と三橋少年は根本に流れるものが余りに違い過ぎて、野球と言う共通点を奪ってしまえば、一体何が彼を喜ばせるのか、全然理解出来ないのです。

 阿部少年は、非常に困っていました。

 

 

(〜〜〜そして現状の阿部隆也〜〜〜)

 

「いーかげん、阿部うぜーよ」

 泉は何時ものようにその辛辣な舌弁をさらっと振るった。それに素早く反応したのは元七組メイトである水谷だった。

「ひゃ〜泉さん相変わらずの毒舌〜。でも、ちっと可哀想になってこない?あ〜んなに上の空で必死に悩んじゃってさ〜」

「悩んでればいいってものでもないよね。いい加減シャッキリしてくれないと、後輩にも示しがつかないよ。阿部はあんなんでも、一応副部長なんだからね」

 にこやかで、柔らかい口調ながらも、言っている事は泉以上にキツい栄口は、しかし表情はやはり頬笑んでいた。

 まったく家の副部長ズはいい性格してるよと、主将花井は溜息を吐いた。

「もうすぐ三橋の誕生日か。今年も、盛大にやるか?」

「お〜花井、それ名案! それい〜ね! 俺乗った!!」

 花井の提案にすかさず間の手を入れたのは我らが4番田島だった。賑やかな事の好きな彼は、それ以上に弟分のような三橋が大好きだった。

「三橋、喜ぶだろうな〜」

 我が事のように嬉しそうにしているのは、妙に三橋に親近感と言うか同族意識が芽生えている沖だった。

「でも、あの様子の阿部を放って、三橋の誕生日会をやるのか?阿部はきっとその日は三橋と二人っきりになりたいだろう?」

 部内のストッパー。何時でも冷静な常識人だが、案外人情熱い巣山が、蔑ろにされがちな阿部の現状を変わりに訴えてみた。

「でも、俺も、三橋を祝ってやりたいな。去年はあんなに喜んでくれたし、今年はもっとちゃんとしてやりたいかも」

 三橋と田島の専属家庭教師になりつつある西広先生は、最近芽生えつつある父性愛に、忠実に発言をした。

「そーだぞ! 俺もちゃんと三橋の誕生日会、やりたいぞ!」

「阿部にゃ去年の自分の誕生日に、いい思いさせてやったんだからそれでいんじゃね?」

「俺、三橋の喜ぶ顔見るのが好きなんだよね。なんか同じビビリとして、心底よかったな〜て気になるし」

「そーだよね。三橋の喜ぶ顔って、周囲に幸せ呼ぶよね〜。しょーがないから、阿部には可哀想なままでいてもらおっか?」

「そうなると、会場は申し訳ないが、また三橋ん家にお世話になるか?」

「そう言えば花井、妙に三橋のおばさんと仲いいよね。それって抜け駆け?」

「栄口、目、笑ってないぞ」

「ね、プレゼントは、みんなでお金出し合って、特大のバースデーケーキ買わないか?」

 

『いいね〜!!!』

 

 仲が良さそうで悪そうで、それでもやっぱり結束力のある西浦高校野球部第一期生は、その団結力でもって、すんなりと5月17日の予定を決めてしまった。

 

 

 

 それを知らぬは現在絶賛片恋中の阿部隆也ただ一人。彼の片恋が実は周囲にだだ漏れだった事は、当人達だけが与り知らぬ周知の事実だったのです。

 頑張れ、阿部少年。めげるな、阿部少年。

 しかしおそらく、当分は……

 

 阿部隆也、片恋中

 

 

 

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