チョコレートスマイル3

 

 

 鷹村はその日結局ずっと不機嫌なままジムでの1日を過ごした。

 青木村や練習生が怯えたようにこちらの様子を伺って来ていたか、歯牙にも掛けずに黙々と与えられたノルマをこなす。

 一歩と言えばあれ以来こちらに近寄って来ようとはせず、視線が少しでも合えば、びくりとして慌てて逸らす始末だ。

(なんだってんだ、彼奴は)

 鷹村は敢えて話し掛けはせず、それでもずうっと着かず離れず一歩の周りをうろついていた。何時もならちょっかいの一つや二つや三つや四つ、掛けている所だが、今日は向こうが話し掛けてくるまでは様子を見ようとし、結局ジムを引き上げる時間迄ずるずると来てしまった。

 待つと言う事が大っ嫌いな鷹村の機嫌は、苛々しつつ右肩下がりの一途を辿るばかりだ。

「おい!けぇるぞ!!」

 結局帰る時になってようやっと鷹村は不機嫌なまま一歩に声を掛けた。声を掛けられた一歩は慌ててリュックのストラップを持ち転げるように鷹村の側まで駆けて行く。

「は・はい、鷹村さん。皆さんお疲れ様です、また明日!」

 バシンと乱暴に鴨川ジムの扉を開けた鷹村とは正反対に、一歩はジムに残っている人々に慌てながらも律儀に挨拶をして静かに扉を閉めて出て行った。

 結局なんで鷹村の機嫌が悪かったのかは分からなかったが、それでも当然のごとく一歩を引き連れて帰る大男に付き合わされるその小さな姿に、気の毒になぁと思ったのはその時ジムに居た人々の総意だった。

 

「泊まってくんだろ?」

 ぶすっと唇を突き出した顔のまま、鷹村は自分の斜後ろを歩いていた小さな影に声を掛ける。

「あ、はい。鷹村さんが御迷惑でなければ」

 恋人同士と言われる関係になって結構経つのに、未だにそんな事を言う相手に、鷹村は心の中で溜息を吐く。

 いい加減、一緒に帰るぞと声を掛けた時は己が望んでいるからだと、自惚れるくらいしてみたらどうなんだと言いたくなってくる。

「………食い物何もねぇから、途中でどっか寄ってくぞ」

「あ、はい。鷹村さんは何が食べたいですか?」

 ジムでのおどおどした様子は何だったのか、いつも通りの返答を返してくる一歩に、鷹村はますます苛立ちを感じた。

「何でもいい……」

 ちらっと振返った一歩の姿は、何でもないような声とは裏腹に視線をあちこちに彷徨わせて、やはり何処か落ち着かない風だった。

 そのまま特に会話もなくスーパーに着くと、鷹村は一歩に己の財布を放り投げる。

「そいつで買って来い」

「あ・ありがとうございます」

 何時もならそのまま一歩に付いて行って、買い物中も何かとちょっかいを掛けるのだがそんな気分にもなれず、スーパーの前の駐車場の車止めの上に、長い足を持て余しぎみに腰掛ける。

 鷹村が座り込むのを認めて、一歩は入り口の前に積み上げられた買い物カゴを一つ取り、とぼとぼとスーパーの中に消えて行った。

 一歩の姿が見えなくなっても、否だからこそ余計に苛立ちを感じて鷹村はトントンと長い足を揺する。

 全く何が気に入らないと言うのか…鷹村の顔を見ただけでびくびくする一歩に、誰の為を考えて、チョコレートを受け取らなかったと思ってるんだよ、と心の中で毒づく。もともと物欲に乏しく甘い物もたいして好まない鷹村は結局行き着く先が変わらないのならと、受け取らずに総ての貢ぎ物を他人にやってしまった。今年は数を数えるどころか、一応貰ったら使っていたスポーツ関連の物すら懐に納める事はしなかった。

 ジムの連中はそんな鷹村の行動を虫の居所が悪かった所為だと捕らえているようだったが、当の一歩と言えば、届けられた物に手すら触れない様子の鷹村に、何処か怯えているようだった。

(全く何を考えてるのか分からねぇ)

 普段あんなに素直に好意を示してくる態度は、実に分かりやすく何を考えているかなんて一目瞭然だ。一歩に己の感情を隠すなんて思考がさらさら思い付かないのも原因の一つだが、それでも真直ぐに自分の気持を伝える大きな黒目がちな瞳は、口下手な一歩の言葉より雄弁に語っていた。

 それが一度こちらを見なくなるとどうだろう、途端に何を考えているのか、全然伝わって来ない。

 あの、全てを丸裸にしてしまいそうな程時には凶悪な瞳に見つめられる事に慣れ切っていた鷹村は、その視線が己に向けられない事に物足りなさと苛立ちを抑え切れない。

(何をうだうだ考えているか分からねぇが、お前は俺だけを見ていりゃいーんだよっ)

 結局は一歩が気がそぞろなのが気に入らないのだ。

 何かを欲しいと思う事の極端に薄い男は、だからこそ一度自分のモノだと…欲しいと思うと何処までも貪欲だ。

 気がそぞろな原因が己だとしても、目の前に居るのに一人でうじうじ考えているのが駄目なのだ。

 

 どうせ悩むなら、俺を見て悩め!!

 自分の事ばっかり考えてんじゃねぇ!!!

 

 苛立ちが段々怒りにスライドして行くのが分かった。

 少し気を落ち着けようと、スーパーの入り口に設置されていた清涼飲料水の自動販売機の前に立ち、ズボンのポケットに入れっぱなしにしていた小銭を取り出した。目の前に赤いランプが一斉に点灯する。

 何時ものようにスポーツドリンクを選ぼうとして、ふと隣に陳列された見なれない茶色の缶が目に入る。ストレートな名前そのままの、甘ったるそうな飲み物の名称にある事が連想された。

(そういや、彼奴からは何も無しかよ)

 男が男に…と言う思考は端から思い浮かばなかったが、こうして意識してみると、そう言うコンタクトが無かった事にも無性に腹が立って来た。

(けっ!この落とし前、どうやってつけてやろうか………)

 底光りする瞳に視線を強くしながら、鷹村は自動販売機のボタンを押した。

 

 ガサガサとビニールの袋を揺らしながら太田荘の古ぼけた鉄製階段を上がると、別段鍵を取り出す仕草を見せずに鷹村はそのまま扉を開けた。

「鷹村さん…また鍵を掛けずに出たんですか?危ないですよ」

 何時ものように注意してくる一歩に、お前が平静を装おうとしてるのはバレバレなんだよ、と思いながら玄関に靴を脱ぎ捨てるとそのまま奥の狭い六畳間に入る。

 ガチンと乱暴に蛍光灯の紐引っ張ると、些か切れ掛かっているのか幾度かバチバチと弾けて漸く明かりが灯る。

 無造作にジャンパーを脱ぎ捨てると、六畳間に唯一在る窓側の壁に背中を押し付けどっかりと座り込んだ。

「俺様は腹が減っている。早急に何か作りやがれ」

 横柄にそう言い放つと、後は腕組みをし、きつい視線で今だ玄関に立ち尽くしていた一歩を睨み付ける。

「あ、あ、はい。お邪魔します」

 一歩は靴を脱ぐと丁寧に揃え直してからそのまま冷蔵庫へと直行した。

 鷹村が玄関に置き去りにしたスーパーの袋と己が持っていた袋の中の食材を、今必要としている分を除いて冷蔵庫へと仕舞い込んで行く。鷹村の部屋には衣紋掛けもハンガーも無いので茶色のダッフルコートを脱いで床に畳んで置くと、一歩が頻繁に鷹村の部屋に泊まり込むようになってから必要性を感じて、持ち込んだ淡いブルーのエプロンを付けた。

 その間、ずうっと肌の焼けるような視線を一歩は感じ続けていた。

 鷹村は腰を落ち着けてから、視線を逸らさずに一歩の行動を逐一見つめていた。否、視線の強さから見つめると言うよりは、不良のメンチ切り。そんな表現がピッタリだった。

 非常にやり難い…どころか、緊張の余り一歩は喉が干上がり手が震えるのを感じた。

 その視線の強さは、総てを喰らい尽くそうとしているようで、一歩は鷹村に視線をやる事が出来なくなってしまった。目線が合ったが最後、喉元に喰らい付かれそうで、背に冷ややかな汗が流れるのを感じる。

 今日の献立はカレーだ。カロリーや鷹村の嗜好を考えて和食が中心の調理をする事の多い一歩には珍しい料理だ。

 材料を切って炒めて煮込むだけ。簡単な物。いくら緊張していたって失敗する要素は何処にも無い。

 緊張に強張る手を何とか宥めながらも、調理は最終段階だ。小さな冷蔵庫の上に置かれた炊飯器からはフツフツと美味しそうな米の炊ける匂いと音がしていた。

 鷹村からの視線のプレッシャーは今だに感じ続けている。

 お願いだから、今から行う行動がばれないで欲しい。この為に普段は中辛なルーを買う所を、激辛を用意した。

 恐らく、これから渡す物は食べては貰えないだろう。それどころか、今日1日の鷹村の行動を見ていて、受け取って貰えるかどうかも怪しい。自分の自己満足の為だけだが形は違えど、どうしても口にしてもらいたかった。

 銀の包み紙を破り、一欠片をカレーの煮立つ鍋に放り込む。

「何入れたんだよ」

「っうわっわっわっ!!!」

 急に直ぐ背後でした鷹村の声に驚いて、一歩は慌てて己の手の中に在るものを隠そうとして逆に床の上に落としてしまった。

 一歩が拾う前に、それは鷹村の指に素早く掬い取られてしまう。

「で?これは何だ?」

 目の前でひらひらと振られたそれは、何処ででも買えるごく一般的な板チョコだった。

「あ…ううう………」

 如何してこの人は、あんなに稀な圧倒的な存在感を持っていると言うのに、悟られずに人の背後に回る事に長けているのだろう………

 混乱に徐々に頬が赤くなって来るのを感じながら、一歩は観念するしか無い事を悟った。

 

 鷹村の目の前に置かれた、円い筒状のチョコレートの駄菓子の箱と美味しそうな湯気を立てているカレーライス。

 小卓の上に置かれた妙な取り組み合わせを前に、更にその向こうで小さくなっている一歩に、鷹村は視線を投げかけた。

 この後に及んで今だに視線をあちらこちらに彷徨わせる相手に、いっそのこと押し倒してやろうかと物騒な事を考える。

 そうすればお前は余計な事を考えずに俺で一杯になるだろう?

 旋毛を見せる相手に手を伸ばしかけた時、さっと、真っ黒な瞳がこちらに向けられた。

「まずは、これは………鷹村さんに、バレンタインのチョコレートです」

 そっと指先で押されたそれは、子供のおやつにピッタリの、お手軽な物。思わず片眉が跳ね上がる。

 それを見た一歩はおずおずと口を開く。だが、視線が逸らされる事は無かった。

「でも、鷹村さんはきっと受け取っても食べてはくれないだろうから………それでも、僕、他の人のようにジムの誰かにあげられちゃうのなら自分で食べてしまおうと思って」

 こんなお菓子なら、鷹村さんもわざわざ他の誰かにあげてしまったりはしないでしょう?と上目使いに見つめてくる瞳は、微塵も鷹村がそれを食べるとは思っていないようだった。

「それでも僕、どうしてもバレンタインデーに鷹村さんにチョコレートを食べてもらいたくて、それでカレーに…」

 それまで只黙って一歩の話を聞いていた鷹村は、ようやく重く閉ざされた口を開いた。

「カレーにチョコなんて入れたら、甘ったるくなって食えねぇんじゃねぇか?」

「あ、いいえ、それは大丈夫です。ルーは激辛にしましたし、少量なら甘くならないでかえってコクが出るんです。蜂蜜でもいいんですけど、チョコレートにはミルクも入ってますから」

 下らない事をするな、とでも怒鳴られると思っていた一歩は、鷹村の台詞に拍子抜けしながらも疑問に答える。

 その返答にふーん…と気のない返事を返しながら、鷹村はおもむろにスプーンを持ち上げると、口を『あ』の字にしたまま固まってしまった一歩の目の前で、大口を開けて掬ったカレーを放り込む。

 そのままむしゃむしゃと咀嚼すると、ごくりと呑み込んだ。

 一歩はどうですかと、問いた気に鷹村の表情を必死に見ていた。

「…………旨い」

 ボソリと呟かれた言葉を聞き取れず、一歩は聞き返してしまった。

「え?」

「旨いけどな、食ってやるよ」

「え…と?」

 今度は鷹村の言っている言葉が何を指し示しているのか分からずに、聞き返してしまう。

「カレーも、チョコレートも、食ってやるよ」

「え?本当ですか?!」

 途端に広がる満面の笑みに、鷹村は今日1日感じた苛々が払拭されていくのを感じる。

 だがな…

「ただし、チョコレートはお前が食わしてくれたら食ってやるよ」

「…………え?」

 じんわりと赤く色付いていく耳朶にかぶりつきたいのを堪えて、鷹村は喉をくつくつと震わせて笑う。

「食って貰いたいんだろう?」

 そう簡単に食べてなどやらない。

 特別だと………一歩が与えてくれるからこそ口にするのだと、その身体に教え込んでやろう。

 

 これは罰だと鷹村は囁いた。何の、とは言わずに。

 広がる肉食獣の王者のような笑いに、それでも一歩は込み上げて来る微笑みを押さえる事は出来なかった。

 

 恋人から与えられる甘い甘い笑顔、それは………チョコレート・スマイル!!

 

 

 

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