三日月は笑う。・1

 

 

 セナはふと、真夜中に目が覚めてしまった。中学生時代とは違い、充実した高校生活を送っているセナが一度寝てしまうと、朝まで目覚めることはまず無い。それなのに、どうしてこの目蓋は開いてしまったのか…半分以上覚醒しきっていないセナの意識は、薄明るい部屋の中を彷徨った。

 …明るい?セナは漸くその事実に行き当たった。蛍光灯はきちんと消したはず。仄かに、それでも明るい光が洩れてくる方向に、セナは視線を動かした。

 ああ、今日は満月なんだ。綺麗だな。

 セナが視線を向けた先には窓のサッシいっぱいに見える、真ん丸な卵色をした満月があった。

 閉めたと思っていたカーテンは、大きく開け放たれた窓から入る風に煽られ、翻っていた。

 窓、締め忘れていたんだな…ぼんやりとした思考の中、セナはその優しい色をした満月を眺め続けていた。

「よお。セナ」

 セナが眺めていた月を隠すかのように、黄色い満月よりも黄金色に輝く頭が窓からヒョコリと現われた。

 その突飛さに、セナは言葉も忘れただ茫然と、黒い服に全身を包んだ細身の身体を素早く窓から室内に滑り込ませた人物を、眺めるしかない。床に直接敷かれた布団の中に包まっているセナに、まるで猫のように音も立てずスルリと近づくと、その傍らに座り込む。

 そこで漸く、セナは凍り付いた喉を動かすことを思い出した。

「ヒッ!…むままんっ!」

 セナのその叫びは、最初の一言を洩らし、後は全て長い指に捕らえられてしまった。

「しー…あんまでけえ声だすと、てめえが起きちまうじゃねえか」

「む・むが…僕?」

 セナの唇をそっと塞いでいた長い指を剥がし、セナはきょとんと瞬いた。

「そうだ。実際のてめえはまだ寝てる。こりゃてめえの夢だ」

「夢?」

 夢の中に出て来る人物に、夢だと指摘されるなんて、そんな可笑しな事は無い。だがセナは、この時すんなりと、その言葉を信じてしまった。夢だと言う人が、現実の世界でも何でも有りな印象がある所為か、なんだかとてもむちゃくちゃなこの状況が、夢の一言で有り得そうな気がしてきてしまった。

「そうだ。自分の寝言で起こされるなんざ、間抜けな事この上ないだろ?本当に起きたくねえんだったら、あまり大きな声はだすんじゃねえぞ」

「はぁ、そうですか。僕はまだ、寝てるんですか………。え?それで、なんでヒル魔さんは僕の夢に出てきたんですか?」

 ソバ殻のカサカサ音を立てる枕の上で、小首を傾げ、セナはヒル魔を見上げた。その顔は、窓から零れる月光で逆光になり、薄暗くはっきりとは見えなかったが、片眉を上げる気配が伝わってきた。

「ンだてめぇ、俺の夢見た事ねえのかよ?こりゃ昼間の扱きが足りねえか?ケケケッこれからはもっと扱き使ってやるよ」

「えええ?!それじゃ悪夢になっちゃうじゃないですか!や、ヒル魔さんの夢は見たような見なかったような?僕、夢って見た直後は克明に覚えてるんですけど、暫くすると忘れてしまうんです」

「随分上等な脳味噌だな」

 辛辣なヒル魔の台詞に、妙にリアルな夢だな、なんて思わずがっくりと落ち込んでしまう。本当に本物のヒル魔そのものの性格に、セナは小さく苦笑いを零してしまった。

「僕の夢の中でも、ヒル魔さんはヒル魔さんですね」

「当たり前だろ。俺が俺以外である筈がねえ。んな俺がわざわざてめえの夢に出てきてやったんだ。なんか俺に用があるんじゃねえのか?」

「僕がヒル魔さんに?」

 なんだろう…セナは思わず考え込んでしまう。アメフトに関する事で、ヒル魔に聞きたい事は沢山ある。が、それは昼間の部活中に聞けば良い事だし、何よりもこれはセナの夢だ。セナが判らない事を質問したって、所詮はセナの夢なのだからいくら本物のヒル魔に性格が似ていようが、セナの知識外の事をこのヒル魔が知っている筈が無い。

 あれでもない、これでもない…と除外して行ったセナは、あ…と小さく声を上げた。

「済みません。ちょっと失礼します」

 そう一言断って、セナは先程自分の唇の上から退かした後、ずっと握りっぱなしにしていたヒル魔の整った長い指を顔の前に手の平を向けて持ってきた。

 そうして、そっとそれに自分の手の平を合わせる。

「わぁ…ヒル魔さんの指って、本当に長いですね」

 セナは、以前からずっと、そのヒル魔の長い指と、自分の指とを比べてみたくて仕方が無かった。だが、現実のヒル魔にそんなこと申し出る訳にもいかず、ずっと見つめるだけだったのだ。これは自分の夢だが、それでも、こうやって比べてみたいと言う欲求は、消えなかった。セナにそう思わせる程、目の前のヒル魔は、現のヒル魔に身体までそっくりだった。

 けれど、セナに指を握り締められたままでも取り戻さなかったように、このヒル魔は確かにセナの夢なのだろう。それに安心して、セナはゆっくりとその手の平を味わう。

 身体に合わせて小振りなセナの手は、ヒル魔の手と合わせると、余計に幼く小さく見えた。指先は勿論、手の平の大きさまでまるで違う。セナの手からはみ出たその手を、まじまじと見つめる。

「てめえの用はこれか?」

 ヒル魔は、そんなセナの様子をじっと見据えたまま、静かにセナに問いかけてきた。

「用…ですかね?何か違う気がする。でも、僕、ヒル魔さんの手を、じっくりと見てみたかったんです。この手は、僕をフィールドで走らせてくれる手だから、ずっと比べて見たくて。比べたって、何にもならないんですけど、それでも、僕を生かしてくれる手が、どんなものなのか知りたくって…自分のと比べてみるのは、それが判りやすい方法だからっていうか……上手く説明出来ないですけれど」

 自分の夢なのに、夢の中まで口下手な自分がもどかしいが、普段は、セナがそうやってもごもごしていると銃声を響かせるはずのヒル魔が、黙って聞いてくれている事に勇気づけられ、最後まで言葉を紡ぐ事が出来た。

 その事に満足して、セナは頬笑んだ。

 ヒル魔は、セナのその微笑みを黙って見つめ、唐突にセナの指と指の間に己の指を絡め、ギュッと握り締めてきた。

「…小せぇ指。…………だが、勝利を掴める指だ。勿論、俺の指も勝利を掴む」

「っ!はい!!」

 こっくりと頷いたセナの頭の下で、枕がコソリと音を立てる。聞き慣れたその音がする自分の部屋に、ヒル魔が存在する不思議さに改めて捕われたセナは、思わずヒル魔の顔をじっと見つめてしまう。

 セナのその視線に気が付いたのか、ヒル魔は、セナの手を握っていない反対側の手の平で、セナの目蓋をそっと塞いだ。

「もう目を瞑れ。朝起きるのが辛くなるぞ」

「僕、もう寝てるのにですか?」

「ああ。もうすぐレム睡眠が終わってノンレム睡眠になる。そしたら俺の役目も終わる」

 レム?ノンレム?何所かで聞き覚えのある響きだが、セナはその意味は思い出せなかった。だが、セナの瞳を覆った手の平が暖かく心地よくて、セナの思考は段々拡散していく。おぼろげな意識の中、セナはお礼だけでも、と急に重くなった唇を必死に動かす。

「ヒル魔さん…今日はありが…と…」

「セナ、俺にしたい事はこれだけか?」

 セナは少し間を置き、そして頭を振った。

「そうか…」

 ヒル魔のその小さな呟きを最後に、セナの意識は再び夜の闇に解けていった。

 

 

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