三日月は笑う。・2

 

 

 …変な夢だったな。

 まだほんのりとしか明るくない朝の光を浴びながら、セナは布団の中で目を覚ました。恐らく目覚めの直前に見た夢ではない。直感でセナはそう感じる。それでも、起きた今でも随分しっかりと内容を思い出せる。

 セナは勢い良く布団から飛び出し、窓へと向かう。カーテンは昨日寝る前に閉めた時のままの姿だった。それを勢い良く横に引き、窓を見る。外はまだ日の出前の藤色の空が広がっている。窓は閉まっていた。

 鍵…鍵は…そう思い確認してみたが、ごく一般的なツマミを回すタイプの簡単な鍵も、閉まっていた。ツマミを回すだけで呆気なく開く仕組みの、簡素な鍵だが、セナの部屋の窓のこの鍵は少し錆びていて、動きが堅い。この鍵に何らかの仕掛けを施して外から開けたり閉めたりするのはいくらヒル魔と言えど、やっかいだろう。それにわざわざそこまでして、セナの部屋に真夜中に忍び込む意義は無いように思われる。

 それでは昨夜のあれはやはり夢なのだ。セナは漸く納得した。

 朝になり目を覚まし、通常の判断力が戻ってきたセナは、昨日の夢の現実感に、思わずあれは本当に起こったことではないかと言う疑問が沸き上がってきてしまったのだ。昨夜は寝起きの判断力ですんなり納得してしまったが、やはり夢にしても突拍子もない内容だと思った。

 だが、寝起きと感じたのも、夢の中の出来事だったのだから、そんな事を考えても仕方がないだろう。夢で有りがちな、どう仕様も無い理不尽さなのだろう。セナはそう納得し、朝練に向かうべく、顔を洗いに階下へと降りていった。

 

 

 セナはつい、グラウンド中に響き渡る声量で檄を飛ばす人物の表情を伺うのを止める事が出来なかった。

 自分の部屋の鍵もきちんと確認し、あれは夢だったのだと納得はしたものの、どうしても忘れられないものがある。

 暖かかったのだ。夢のヒル魔の手は。

 セナは今まで、夢の中で温度や味や感触を実感した事は無い。色ぐらいは付いていたが、その温もりまで感じてしまうなんて、本当に現実の出来事のように思えてきてしまい、混乱してしまうのだ。

 つい、ヒル魔の表情に夢の欠片が無いか伺ってしまい、夢の中の優しい温度を思い出し、指先を見つめてしまう。

「なにぼうっとしてやがんだ糞チビ!」

 40ヤード走の記録をストップウォッチ片手に記録用紙に書き込んでいたヒル魔は、自分の順番が来たと言うのにスタート地点でぼんやりとした様子で立ち尽くすセナにすぐさまライフルの銃口を向けてきた。それに漸く正気付いたセナは、ヒル魔が撃った銃声を合図に、慌てて走り始めた。

 風をびゅうびゅう切り、セナはゴール地点にいるヒル魔めがけて走る。

 月よりも輝かしい黄金色の髪の毛は、夢で見たときよりも眩しい色をしていた。

 今、ヒル魔に渾名を呼ばれ、漸く判った。夢のヒル魔は、セナの事を一度も、既に己の身体に馴染んでしまったその渾名で呼ばなかった。そして聞き慣れない音で呼んだのだ。

 『セナ』と。

 本当に、あれは夢だったのだ。40ヤードの白線を超え、ヒル魔を背後に越し、セナは急ブレーキをかけた。足下では、地面にこすれ、靴が迷惑そうな悲鳴を上げる。振り返ったセナは、既にストップウォッチに視線を向け、セナに欠片も視線を寄越さないヒル魔の横顔を見つめた。

 あの暖かな温もりも、優しい重さをセナの目蓋に残した手の平も、セナを『セナ』と呼んだ声色も、全部、夢なのだ。

 どんなにセナが現実では?と思いそうになっても、その現実のヒル魔が、あれは夢だと突き付ける。

 それでも、セナはあの温もりが、虚実のものだとは、心の奥底では思い切れないでいた。だが、セナ自身、どうしてそこまで頑に夢を現実のものであると錯覚してしまうのか、自分の身に起こった事だと言うのに説明出来ないでいた。

 

 

「よお。セナ」

 セナは初めてヒル魔の夢を見た満月の晩から殆ど毎日、ヒル魔の夢を見るようになっていた。ヒル魔は必ず背後に月を背負い、セナにそんな声を掛けながら現われる。

 この時期、月が昇るのは真夜中だ。夢を見ないで起きる朝も幾日かはあるが、それもほぼ無いと言っていい。セナが覚えてないだけで、もしかしたら毎晩見ているのかもしれないこの夢を、現実ではないかと疑うことをセナは既に放棄していた。何故なら、いくら超人的な精神力を誇っているヒル魔とて、毎晩真夜中に出歩けるほどの体力は無いだろうと判断したからだ。もちろん、思考の奥底では本当に納得したわけではなかったが、それでも、状況がそれは有り得ないと言っていた。

 しかしセナは、このように連続した繋がっている夢を見たのは初めてだった。それはとても不思議な気持ちにセナをさせる。

 セナは、己がこのような夢を見る理由が知りたくなっていた。

「今晩は、何がしたい?」

 ヒル魔は、満月の夜の日以来セナの夢に訪れるようになってから必ずセナにそう促す。そして、僅かな時間をセナの好きなようにさせるのだ。

 セナは、そのヒル魔の問いに必ず身体の何所かを触れ合わせる事を希望した。

 初日は手の平。次の日はその常人よりは遥かに長い耳。その次の日は黄金色をした髪の毛。そのまた次の日は…といった具合に。

 そのどれもが、まるで本物のヒル魔に触れているかのように、セナの手の平にしっかりとした感触と温度を感じさせる。

「あの、良ければ、ヒル魔さんの睫毛が触ってみたいです。長くて、綺麗だなって何時も思ってて」

「んだよ、部活中にんなとこ見てんのか?随分余裕あるじゃねえか」

「………違うんです。夢のヒル魔さんの睫毛、月の光を反射して、キラキラしてるんです。それを何時も見てて、綺麗だなって………」

 ヒル魔は意外そうにセナを見つめ、そして黙ってそっと薄く目蓋を伏せた。

 セナは辿々しく、その睫毛の先に触れるか触れないかで指先を彷徨わせた。

「…けっこうくすぐってえな」

「僕の夢なのに、ヒル魔さんくすぐったいんですか?」

「てめえがそういう風に設定してんだろ」

「あ、そうなんですか…」

 ヒル魔は、セナが目のすぐ近くに指を持っていっていると言うのに、目蓋を伏せるだけで完全には閉じない。薄く開いた目蓋の奥の虹彩は、セナをじっと見つめている。

 セナが何時も恐る恐るそっと触れている間、ヒル魔はそんなセナの様子を見つめ続ける。そして時折、ヒル魔の方からセナに問いかけてくる事もある。それは何気ない日常の事だったり、アメフトの事だったり、他校の選手に関する事だったりした。けれどもそれらはどれも他愛無い、普段の部活上でも話されても可笑しくない、本当に些細な事ばかりだった。

 しかし、昼間の現実の部活動では、そんな会話が交わされる事もない。それほど練習は密度が濃く、皆真剣だと言う事だ。勿論部活が終わった後はそれぞれが思うように交流を交わす事もあるが、ヒル魔とセナの間にはそれも無い。ヒル魔は何時も忙しそうだった。

 セナに話しかけてくる夢のヒル魔の声色は何処までも穏やかで、口は相変わらず現実のヒル魔同様悪かったが、ヒル魔自身、その会話を楽しんでいる事が十分に伝わってきた。

 夢は、普段のヒル魔とセナの関係とは全く逆だった。現実では、セナはヒル魔の要求に応え、走る。夢では、ヒル魔がセナに要求を聞き、それに応える。

 慣れない状況にセナは戸惑いを感じずにはいられなかったが、それ以上にヒル魔の暖かさは心地よく魅力的だった。

 些細な時間をそうやって過ごし、夢も終わりに近づく頃、ヒル魔は必ずある台詞をセナに言う。

 セナの目蓋をそっと手の平で覆いながら寝かしつけるかのような穏やかな声で囁くのだ。

「セナ、俺にしたい事はこれだけか?」

 まるでまだ、セナの欲求に応えようとしているかのようなこの問い掛けに、最初の内はヒル魔の温もりに逆らえないかの様に暗闇の中に落ちようとしている意識の所為で、セナは頭を横に振って答える事しか出来ないでいたが、徐々にそれを繰り返して行く内に、ヒル魔の穏やかな声色の奥底に潜むものに気が付く様になってきていた。

 セナに好きなようにさせる真夜中のヒル魔は、この時ばかりは、何かをセナに要求している。

 セナから、何かを引き出そうとしている様に感じるのだ。

 だが、一体何を?

 セナには全く思い当たらない。明るい日の下のヒル魔の要求なら直ぐに分かる。セナが誰にも捉えられない程早く、フィールドを駆け抜ければよいのだ。昼間のセナが求められるのは、端的に言えばそれだけだ。それはとても判り易いことだった。

 けれどもセナの夢である筈のヒル魔が、セナに何かを要求している。

 セナは、己の夢だとは言え、このヒル魔の要求に何とかして応えたかった。

 それが、セナがこの夢を見る理由とも繋がっているような気がしたからだ。

「………ヒル魔さん…どうして…?」

「……………。セナ、判らねえか?」

 セナの耳は暗闇に落ちる寸前、セナの零した疑問に小さな小さな呟きを返したヒル魔の声を、確かに聞いたような気がした。その小ささに、セナは明確な言葉は言えなくても何とか答えようともがいたが、唇は既に重たく、開いてはくれなかった。

 満月は既に欠け、もうすぐ新月の夜を迎えようとしていた。

 

 

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