目薬・2

 

 

「たく…なんで目薬注すだけの事でここまで大騒ぎしなきゃなんねーんだ」

 ぐったりと肩で息をする俺に、糞チビは今だ床の上に膝立ちになりながら、上向いた顔を戻さずそのままパチパチと瞬きを繰り返す。多分せっかく注した薬液が零れ落ちるのが惜しいんだろう。貧乏臭ぇー奴。

 ポカンと口を開けたままそれを繰り返す糞チビの間抜け顔に、どっと疲れた精神が思わず癒されるのを感じ、俺は俺自身に呆れ返る。俺はこの糞チビに相当ヤられているらしい。

 糞チビは暫くそれを繰り返すと、上を向いたまま覚束無い足取りで、俺の斜め前の椅子に座り直す。

 俺の指定席はいつも決まっている。部室の入り口から一番離れたカジノテーブルの狭い辺で、椅子が一つしか置けない。実質、糞チビが座った椅子が、俺に一番近い椅子になる。

 上を向いたままこちらを見ない糞チビに、俺は気になっていた事を問いかける。

「お前目薬なんて注す習慣あったか?」

 俺みたいにパソコンの画面を長時間見たり、眼を酷使しなければならないような環境に或るのならまだ分かる。しかしこいつは選手兼建前上とは言え主務のくせして、それ関係の仕事がまるで出来ない。備品の数量が細かく書かれたリストを見る事も無ければ、対戦相手の細かいデータや攻略方法を綴った書類を見る事も無い。アメフト部に入る前はTVゲームが趣味だったようだが、今は激しい運動の後家に帰り着いたとして、それをやる体力が細いこいつには残っているとは思えない。

 いったい何処で目薬を使わなければならないような状況に陥ると言うのか。

 今日の1年2組の体育はプールではなかった筈…と脳内にインプットされた糞チビの情報を無意識に検索しながら、俺は問いただす。

「あ、ええと…」

 糞チビは上を向いたままことんと器用に首を傾げた。そのあまりに玩具じみた首の動きに、頭の重みに耐えかねて、細い首がもげるのではないかとありもしない妄想に俺は取り付かれる。俺がそんな思考を巡らせているとは思いもしない糞チビは、何かを探る様にゆっくりと、言葉を続けた。

「僕、何でかよく逆睫毛になっちゃうんです。それを取り除いた後は必ず、変なバイ菌が入らない様にってまもり姉ちゃんが目薬を注してくれてたんですけど、それがいつの間にか習慣になっちゃってて…」

 あーそれでか…と俺は妙に納得した。固く眼を瞑り妙にビクビク動く糞チビに目薬を注すのは流石の俺でも難しく、精一杯で最中はそんな事気にも留めなかったが、思い返してみればこいつの大きな瞳を飾る睫毛は、男のくせにいやに本数が多く、おまけに一本一本が長かった。あんなにバサバサしていれば、さぞかし邪魔で、逆睫毛も多くなろう。

 その瞳を思い出すと、どうしてももう一回間近で見たくなり、上を向いたままの糞チビの面を凝視して、俺は強く、こちらを向けと心の中で唸ってしまう。

「なのに僕、目薬注すのがどうしても苦手で…反射的に目を瞑ってしまうし、狙いは外れるしで。本当に助かりました、ありがとうございます」

 その声が聞こえたのかどうか…糞チビは、瞬いていた目蓋の動きを止め、にっこりと笑いながらこちらに顔を向けた。

 長い睫毛には、目薬の薬液の粒が小さく幾つも付き、部室に差し込む紅い夕日を反射して綺羅綺羅と輝いていた。

 パチリ…一つ瞬いた大きな瞳からは、堪え切れずにポロリと大きな雫が転げ落ちた。

 奴の白い頬を伝う雫は、どの目薬にも共通の、薬臭い甘い味がするのだろう。

 涙に見えるその雫が、本当に甘い味がするのか。それを舐めとって確かめてみたい衝動を、俺はやっとの思いで咬み殺した。

 糞チビは、努力虚しく頬にこびりついた液体を無造作にYシャツの袖で拭っている。

 警戒心のかけらもない無邪気なその仕草に、煽られている男が居るとも知らないで。

 

 どんな些細な事でも、知りたいと願ってしまう。

 目薬を注してやったと言う事実を隠れ蓑にして、その理由をさり気なさを気取って探る俺の本心に気が付く事もなく。

 糞チビはひとつひとつゆっくりと俺に剥かれていっている。

 気が付いた時にはその身を守るものは何一つない。丸裸にしてやるよ。

 くつくつと、押さえ切れない笑みを顔に浮かべながら、俺の歯形がくっきりと残ったプラスチックの容器を、放り投げて返す。

 危なげに糞チビはその容器を受け取り、己のポーチを引き寄せ何の疑問も思い浮かべずにそれをしまった。

 

 

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