目薬・3

 

 

 ゴソゴソと、机の下の大きなスポーツバックからポーチを取り出すと、僕はその中から小さなピンク色の容器を取り出す。

 指先にはつるりとした感触が返ってくる筈のそれの表面に、でこぼことした感触を見つけ出して、ぎくりとした。

 昨日の放課後に起こった、信じがたい出来事が急に甦ってくる。

 寝不足にしょぼしょぼした目蓋を何とかしようとして、何も考えずにそれを取り出した僕は、急激に頭に上ってくる血にくらくらしてしまった。

 

 

 

「なんだ、またもがいてんのか」

 部活も終わり、すっかり着替えも終わった部員が居なくなった部室で、僕は目薬を片手に奮闘していた。

 アイシールドである事を部員の皆に隠している僕は、必然的に着替えも皆が帰った頃を見計らいこっそりとするので、何時も最後まで部室に居残りになってしまう。

 僕の背後から、気配を消していきなり声をかけてくるこの人は、勿論別だ。一体何時家に帰っているんだろうと思わせるほど、この高校生の運動部には不必要な綺羅美やかな部室に馴染んでしまっている。

「あ、ヒル魔さん」

 注し掛けの目薬を戻し、僕は振り返った。

 僕は逆睫毛がどうも人より多い。それを取り除いた後、必ず眼病予防の為に目薬を注していたのだけれど、それがどうにも上手く行かないのだ。

 悪戦苦闘する僕を見かね、以前ヒル魔さんには目薬を注してもらった事がある。それが切っ掛けになったのか、ヒル魔さんはこうして僕が目薬片手に苦労していると必ずと言っていいほど、話しかけてくる様になった。

 特に、逆睫毛は部活後に起こりやすい。汗を掻き、その雫が睫毛に垂れるし、部活後は頭に水を被ったり、顔を洗ったりしてタオルで擦るから、よけいになりやすいんだと思う。

 そうなるとかなりの高確率で、目薬を注す姿をヒル魔さんに見られる事になる。

「ほら、貸せよ」

 男の僕が見ても長く美しい指をこちらに差し出して、ヒル魔さんは何時もの台詞を言った。

 意外な事にこの人は、ちんたらやってんじゃねぇと怒られると思っていた僕の予想を裏切り、それ以来、目薬を注してくれる様になったのだ。

 最初はそんなヒル魔さんの行動に躊躇い遠慮していた僕も、あまりにもその回数が多くなり、今では何の抵抗もなくあっさりと小さな容器をその指に渡す様になっていた。戸惑ってもたもたしていると、僕の頬のごく近くを銃弾が風を切る所為もあるけれども…

「はい、ヒル魔さん。何時も済みません」

「そう思うんなら、ちっとは上達して見せろよ」

 ニヤリとした何時もの笑いではなく、何所か苦笑めいた珍しい表情を浮かべながら、ヒル魔さんはカチリと容器の蓋に齧りついた。それは目薬を開ける時のヒル魔さんの癖であるらしく、淡いピンクの蓋は無惨にも凸凹になってしまったが、僕は何も気にならなかった。

 顔を仰向け、じっと待つ。

 最初の頃は、他人に目に何かを入れられると言う感覚に、ガチガチに固まっていた身体の力も、上手い事抜ける様になっていた。一つ注すにも大騒ぎだった作業は、何の滞りもなく進んで行く。

 人に目薬を注してもらう行為に慣れてきて、自分では未だに注す事の出来ない現状はこれ如何に…とは思うものの、自分で注そうと思うと、どうしても雫が落ちる瞬間に目蓋を閉じてしまう。ヒル魔さんは、普段の乱暴な行動を全く匂わせる事なく、意外にもそっと僕の目蓋を押さえ、あっと思う間も無く雫を僕の目に垂らす。どうやらそれが、僕に目薬を注す時のコツらしい。

 テメエは身構えさせると駄目なんだ。とは彼の人が何時だったかぽつりと零した台詞。それを聞いた僕は、全くその通りだと思った。

 今日もあっさりとヒル魔さんは目薬を注し終えてしまった。その鮮やかな手際に感心しながら、僕は上向いたままパチパチと瞬きする。

 しかし、瞳に落ちた水滴の量が多かったのか、目尻から、ホロリと溢れ出してしまう。じんわりと髪の毛の根元に染み込む感覚に、僕はゾクリとして、慌てて上向けた顔を元に戻す。

 すると、徐々に口の中に広がる何とも言えない甘い味。

 僕は思わず幽かに眉を寄せてしまう。

「どうした?」

 僕の僅かな表情の変化に気が付いたらしい。口に銜えたままのキャップにパチンと容器を嵌め、ヒル魔さんは問い質してきた。

「あ、いや、目薬を注した後って、口の中に薬の味がしますよね。僕それがあまり得意じゃないんです…」

 せっかく目薬を注してもらってこんなことを言うのは失礼かもしれないが、何時もは多少覚悟してその味に耐えていたのが、今日は不意に顔を元に戻したものだから、心構えが出来る前にその甘みを感じてしまった。

 甘いものが嫌いではないのだけれども、人工的な何とも表現しがたいその味に、僕は溜息を吐いてしまう。

「なんだ、甘臭ぇもん大好きの糞チビも、薬の味じゃ駄目ってか」

「はあ」

 からかい口調を隠しもしないヒル魔さんの声と共に目薬を返される。僕は全くその通りなので覇気のない返事と共に、それを受け取った。

 人間って本当に目と鼻と口が繋がってるんだなぁと詮の無い事を考えていた僕は、目の前に急に落ちた影には反応しなかった。

「んん?!」

 僕の見開いた視界には、鋭い目付きを更に細めたヒル魔さんの瞳だけが映し出されていた。

 ぼんやりと開けっ放しだった唇から、ぬるりとした熱い何かが侵入してくる。

 ヒル魔さんの舌だ…そう思う前に、それは精力的に僕の口腔内を探り始めた。

 何かを確かめる様に縦横無尽に動き回るそれに、反応を何処か遠くに置き忘れていた僕は漸く抵抗を思い出す。

「んん!!!んんんんん!!!」

 何、ヒル魔さん。と叫んだ筈のその声は、全部鼻に抜けて行ってしまった。衝撃に力の抜けてしまった指は、ピンクの容器を滑り落とす。

 カコンと軽い音を響かせ小さな容器は床に転がった。

 その音に僕は、身体をギクンと跳ねさせるが、僕の口を塞いだ人は、構わずに舌を蠢かせる。

 力の入らない指は、ぶるぶると細かく震え、細く見えても僕よりは確実に力強い身体を押しのける事は出来なかった。縋り付きたい訳でもないのに、僕の指は、その人のYシャツを掴んで掌の中でぐしゃぐしゃにしていた。

 ジュッと言う音を残し、随分と長く思われたその行為は唐突に止んだ。

 吸われた!!

 思考が上手く回らない僕の頭は、何故か唾液を吸われたと言う事実だけを、素早く理解させた。

「…っはあ、はあ…はあ…」

 急激に脳味噌に酸素が行き渡る。その感覚にクラリとした。口を塞がれている間、僕は間抜けにも、息をするのを忘れていたようだ。最も、それどころではなかったと言うのが正しい所だけれども。

「…確かに、甘いな」

 僕から奪った唾液を味わうかの様に、濡れた唇を舐めながら、痩身の人は悠々と宣った。

 僕は、荒い息の元、もう何も考えられずにポカンとするしかなかった。

 僕の忙しなく上下する肩を眺めながら、ニヤリ、その擬音が全く似合う表情で、目の前の人は言った。

「言ったろ?テメエは身構えさせると駄目なんだ」

 だから、今、このタイミングでやった。全く悪びれる事のないその態度に、僕は惚けた頭で思った。

 全くその通りだ…と。

 

 

 

 ああああああ…何が、全くその通りなのだろう。昨日の出来事を、自宅に帰り着いてから嫌と言うほど考えてしまった僕は、見事に寝不足に陥った。

 授業を受け、眠気のあまり霞んだ思考で一時期その事を忘れる事が出来たが、それも自分の迂闊な行動で、鮮明に思い起こしてしまった。

 一晩明け、ヒル魔さんに対する身構えがばっちり出来てしまった僕は、朝練時に、周囲に不審がられるほどギクシャクとした態度しかとれなかった。

 対するヒル魔さんは、僕とは違い、何時もと全く変わらない様に見えた。

 一瞬昨日の出来事は夢だったのかと思いかけてしまったけれど、ニヤリと、視線を合わせたヒル魔さんが僕に向けて浮かべた表情に、あれは現実だったのだと痛いほど知らしめる。

 どうしてあんな事になったのか、僕の回転の悪い頭では、たった一晩じゃ少しも理解には及ばない。

 自分でも分かるほど、頬に熱が集まった僕の手には、歯形が付いた目薬がチョコンと乗っていた。

 

 

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