神の足に口付けを…1

 

 

 昼間の賑々しさが嘘のように静まり返った暗い部室へと、ヒル魔は足を踏み入れる。

 スロットが回転している間は煌びやかな光が反射し、ジャラジャラとコインの音が反響している部室内も、夜も更けた今の時刻では重苦しく静まり返り、空気がこそりと動く気配すらない。

 ヒル魔は寄し掛かるかの様に体重を預け部室の引き戸を開き、身体の内に籠もった熱を吐き出すように溜息をひとつ落とした。

 黒く染められたTシャツの裾を手繰り寄せ、顎を伝う汗を拭う。後数歩、足を進めればロッカールームに辿り着く。その中にはタオルもあるが、そこまでの距離が煩わしいほどヒル魔の汗の量はおびただしいものだった。どうせすでに汗が染み込み、絞れるほどなのだ。今更多少その量が増えたとて、なんら問題はない。

 そのままTシャツの裾で顔中拭いながら、ロッカールームの入り口に立った。

 途端にヒル魔の身体に緊張が走る。

 誰だ!と誰何の声を上げ掛けたが、咄嗟にぐっと堪える。

 夜目の利くヒル魔がロッカールーム内で捉えたものは、部屋の中央部に備え付けられたベンチの影に縮こまるようにして、微動だにしない黒い人影だった。

 泥門の関係者の誰かがヒル魔の弱みを握ろうと忍び込んだのなら幾らでも対処の仕様もあるが、何も知らない外部の者が、ただの部室とは思えないアメフト部の外装に魅かれ、忍び込んできたのなら、急に声を上げれば非常に危険だ。

 ヒル魔は横目で素早く部室内に散らばっている銃火器の位置を確認し、じっとベンチの影に踞っている人影に目を懲らす。

 もともと暗所に強い網膜が慣れ、さらにその人物の特徴をヒル魔に伝えてくる。

 意外に小さい…踞っているからだろうか?その影は、ヒル魔が慎重に注視している間、ピクリとも身動きしない。ヒル魔は段々別の不信感を抱き始めた。

 まさか…と、ある心当たりに行き着き、先程までの慎重さをかなぐり捨て、ヒル魔は大股でその影に近づいた。

「おい、糞チビ!」

 果たして、冷たい床の上に踞っていたのは、アメフト部の主務…もとい、ヒル魔が無理矢理アイシールド21として偽のヒーロー像を作り上げた、ランニングバックだった。

 どうしてこんな時刻にこの少年がロッカールームの床に転がっているのか…そんな当然の疑問よりも、ヒル魔は、この少年は何が原因で、床に倒れ込んでいたのかが気になった。

 何所か身体の調子でもおかしいのか?一刻を争う事態になっていないだろうか?ヒル魔は素早く少年の身体を検分した。勿論倒れている人間を見つけた時の鉄則で、無闇に身体を揺すったりはしない。何が引き金となって、症状が悪化するとも限らない。

 ヒル魔はざっと呼吸音・脈拍・体温を調べ、そして結論を出した。

「…こいつ、寝てやがる」

 昏倒した時に起こる、いびきなどの危険な徴候も無いし、体温も平温である。脈に乱れは無いし、暗所ではあるが、肌の色に異常も見受けられない様に見えた。

 どっと肩の力が抜けてしまったヒル魔は、少年の傍らにあるベンチにドッカリと座り込んだ。

 少年は、ヒル魔の焦りなど何も知らず、すやすやと穏やかな寝息を立てている。

 ヒル魔を焦らせる事が出来る人物など易々とは居やしない。そんな珍しい事態を引き起こしたとは露知らず、小さく間遠な寝息を繰り返しながら、少年は眠り続ける。その健やかな吐息を無意識の内に数えながら、ヒル魔は徐々に心が静かになって行くのを感じた。

 そして、いつの間にか煩わしい程滴っていた汗は乾き、水分をたっぷりと含み湿っていたTシャツが気化熱で冷え、身体の熱を奪って行く。その感覚に気が付いたヒル魔は、ここでこうやって何時までもじっとはしていられないと、足下に転がっている小さな身体を蹴飛ばした。

「おい、起きろ糞チビ」

 初夏とは言え、夜は気温も下がる。底冷えする床の上に何時までも転がっていれば、本当に体調を崩しかねない。今は、一分でも一秒でも無駄に出来る時間などこれっぱかしも無い。風邪で何日も練習が出来ないなど、言語道断だ。

 だが、少年は、丸まった背中に衝撃を受けてもピクリとも動きはせず、こんこんと眠り続けるだけだ。

 その寝穢さに、ヒル魔は思わず溜息を吐く。

「普通こんだけやりゃあ、気配で起きるだろうが…生物としての生存本能に大きな欠落があんじゃねえのか?とろくせぇ奴…」

 だが、ヒル魔はそれ以上無理に少年を起こそうとはしなかった。先程の蹴りだって、常のヒル魔から考えれば、撫でているのと変わりない様な強さで行なわれていたのだ。何故かヒル魔には、真剣にこの少年を起こそうと言う気が、湧いて来なかった。

 少年の穏やかな吐息を聴いていると、何時までもその音を聴き続けていたい様な、そんな気持ちが湧いて来る。それは、この少年が、どうしてこんな真夜中に部室の床に寝ている破目になったのか、その経緯推察するにあたって湧いてくる気持ちなのかもしれなかった。

 恐らく放課後練習が終わった後、一人で校外を走り込んでいたのだろう。そうして己の体力以上の力を使い切り、力尽きてこの床で眠り込んでしまったのだ。その証拠に少年は、主務とガムテープで張られた白いTシャツと黒いハーフパンツの姿のままだった。

 自主的に、己を高める努力を惜しまない人間に対してまで非道な扱いをする程、ヒル魔は非情な性格はしていない。

 だが、少年を本気で起こせない気持ちの所以に、まったく別の可能性にも、ヒル魔は心当たりが無い訳ではなかった。けれども今は、その小さな囁きは、きれいに無視するのが得策だと、聞こえない振りをした。

「っち…しょうがねえな……」

 小さく呟きながら、ヒル魔はベンチから腰を上げる。

 ヒル魔は全体的に小作りな少年の背中と膝裏に腕を差し込み、ベンチの上に引きずり上げる。冷たい床に放置しておけば、まだまだ体力の無いこの少年は、あっという間に体調を崩してしまうだろう。

 ベンチの上に横たわらせると、ヒル魔は自分のロッカーから、制服のジャケットを無造作に引っ掴み、仰向けに大きく転がっていた筈が、いつの間にかまた、手足を縮こませ小さく丸まってしまった少年の上にポイッと落とした。そして己はタオルを肩に引っ掛けて、再びベンチの上にドッカリと腰を下ろす。

 少年の身体は小さくまとまってしまったからだろう…ヒル魔が投げ落とした上着にその殆どがすっぽりと覆われ、細い手足がそこからすらりと伸びてはみ出ていた。

 ヒル魔の体格は格別大きな方ではない。その上着にすらすっぽりと納まってしまう少年の身体の小ささに、改めて気付かされる。先程ベンチの上に引き上げる時だって、意識の無い人間を持ち上げたのにも関わらず、重いなどと一瞬でも感じなかった。むしろ、構えていた重さよりも遥かに軽い体重に、少し勢いが余ってしまった程だった。

 何処までも華奢な作り。今は身体が見えない所為か、手足の細さが一層に引き立って見える。足首など、ヒル魔の手で掴んだら、指が一周出来るのではないかと言うくらい細い。

 思わず本当に、こちらに向かって伸びている足首を掴んでいた。少年の細い足首は、ヒル魔の目測通り指が一周してしまい、尚かつ余ってしまう程だ。手の平の中の足は、本当に華奢で、ヒル魔がこのまま握力に任せて握り潰してしまえば、簡単に骨は砕けてしまいそうだった。

 その時、ヒル魔は何も考えていなかった。ただ、見た目の感想をつらつらと、意識もせず心の内に浮かべているだけだった。

 無意識は、ヒル魔の脳には届かず、まるきり脊髄反射で身体を動かしていた。

 ギュッと指に力を込める。

 途端に返って来るしっかりとした感触。幾ら細く折れそうに見えたって、少年はこの足で、自分の何倍も大きな身体を持つむくつけき男共を翻弄し、打ち勝って行く。

 だが、少年の細さも、変え様の無い事実である。いつ、ポッキリと折れてしまうとも限らない。

 少年は、人よりも臆病だ。こんな小さく脆そうな身体を持っているのならば、それも仕方の無い事かもしれない。だが、少年は、怯えながらも、けして逃げない。何度も逃げようとするが、その度に自分自身で戦場に戻り、立ち向かって行く。

 人よりも臆病な人間が、そんな勇気を振り絞るのは、格段に難しい事だろう。それでも小さな少年は、時にはこちらを動かす程、その勇気を見せつけてくれる。

 この小さな身体の何処に、そんな力があるのか…

 ヒル魔の手の平の中の足は、その象徴とも言えた。

 確かに、少年は、死んだ筈のアメフト部を生き返らせる足を持っていた。だが、ヒル魔に脅され命令されるままでは、恐らくヒル魔の目指す先には辿り着けないだろう。

 しかし、脅されていた筈の少年は、自分の意志で走る覚悟を何時の間にか決めていた。

 その瞬間の震えを、ヒル魔は今でも克明に覚えている。そう、昔の事では無い。

 その時より、この少年は、ヒル魔の光となっていた。

 ヒル魔は、今まで、祈った事は無い。神など、これっぽっちも信じてはいない。信じるのは、己の力だけだ。

 人は時に、己の力ではどう仕様も無い場面に巡り会った時、自分の力以上の存在に祈る。欲深で浅はかな人間は、祈りすらしない。ただ、率直に、己の要求を押し付けるだけ。願掛けなど、そう言うものだ。

 だからヒル魔は、祈った事は無い。何時でも頼るのは、己の力だけだ。己に祈りを捧げる者など居やしないだろう。

 この時ヒル魔は、本当に何も考えていなかった。

 ただ、身体が勝手に動くのにまかせ、それに逆らわなかった。それは普段からすべて計算尽くで動くヒル魔にはらしからぬ行動だった。後から落ち着いてこの時の心境を検証してみて、一番しっくりくるこの行動の名称が、『祈り』のそれに一番近いのだと気が付いたのだ。

 

 ヒル魔は指に込めた力とは裏腹に、そっと身を屈め、その細い足首に、唇を寄せた。

 

「…ぅん」

 少年が、小さく身じろぐ。その音に、ヒル魔ははっと我に返った。

 まるで何かに操られているようだった。己の行動を己自身で制御出来ないなど、ゾッとする。先程別の可能性に思考をストップさせたのだって、この感覚を味わいたくは無かったからだ。

 このままで居たら、本格的に面白くは無い事になる。さっさと着替えてここを後にしようと、ヒル魔はベンチから立ち上がりかけた。

「………ヒ…ル魔さ…………」

 小さな呟き。たったそれだけの事で、ヒル魔の動きを全て奪ってしまう。

 眠り続ける少年のあどけない表情を見て、ヒル魔は大きく舌打ちをした。

「てめえ…俺が何でわざわざ止めてやったと思ってやがるんだ。俺の努力を無駄にしやがって」

 ヒル魔はギリギリと歯軋りを鳴らす。眉間に皺を寄せ、もの凄い表情で少年の健やかな顔を睨みつける。

 だが、その表情とは裏腹に、ヒル魔はベンチの上に膝立ちになると、少年の上に覆いかぶさった。

「セナ、引き金は、確かにお前が引いたんだ………」

 ポソリと小さな囁きを、少年の上に落とした。

 そして、そのまま身を屈める。

 一つの可能性でしかなかった心当りが、確実になった瞬間だった。

 

 

 

 

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