神の足に口付けを…2
セナは、何処までも広がる白い大地の上に、ポツンと独り、佇んでいた。 真上には、見た事も無い深い青。 地面の照り返しが強い所為か、その青が、一層濃くセナの瞳に映った。 ここは何処だろう。 こんなに白い平原、セナは知らない。 何時だったかテレビの映像で見た、何所かの国に存在する塩の砂漠とは、こう言った感じだろうか。 周囲を見回しても、遠くにすら山脈の影は見当たらない。白い大地とは対照的に、青い空には一片の雲も浮かんでは居ない。 本当にセナ以外何の影も見えない空間に、セナは立ち尽くすしか無かった。 だがセナは、何故か不安に感じる事は無かった。この空間が、不安を感じるにしては余りにも広大で、美しい所為もあるかもしれない。 佇むセナの視界に映る何処までも白と青の世界の中、ポツンと黒いシミを見つけ出した。 この空間にまるで溶け込まないその黒さに、セナは心当たりがあった。 あんなに異質な存在を、セナは他には知らない。自分以外の存在を見つけ出した事に、セナは思わず頬笑んでいた。 「ヒル魔さん!ヒル魔さーん!!」 セナは黒い塊に向かって手を大きくブンブンと振って、これでもかと言うくらい大声を上げた。 しかし、黒い影は微動だにしない。 声が届かなかったのかと、セナは再び大きな声を上げる。 「ヒ・ル・魔・さーん!!!」 途端に、ガウンっと銃声が一発響き渡った。それに遅れて、低く良く通る耳触りの滑らかな声が届いた。 「糞チビ!呼んでねーで、てめえからこっちに来い!!」 その余りにヒル魔らしい台詞に、セナは、ああ、と声を上げて笑い出した。確かに、大声で叫び合っているより、そうやって前に進んだ方が、よっぽど生産的で有意義だ。 基本的にどこかのんびりしているセナを、その人は何時でも引っ張り上げてくれる。黒の装いの中、ひと際眩しく輝く黄金色を目指して、セナは駆け出していた。
「…………っぷっはあ?!」 一体自分の身に何が起こったのか?ぱっちりと目を覚ましたセナは、何が何やら全く分からない。ぜえぜえと、口を大きく開き、肩で息をする。何だか鼻が苦しい。そう思うと同時に、目の前で、ぱっと指が開かれた。 「おう、やっとお目覚めか。呼吸を止めてから1分21秒。鈍すぎるにも程があるな」 「え?ヒル魔さん?何で僕の部屋に…?」 「ばーか。ここは部室だ。てめえは暢気にここで寝こけてやがった。いい加減引き上げるぞ」 「え?あ…!」 セナは慌てて横たわっていたベンチから上半身を起こした。その拍子にするりと布がずり落ちる。それを思わず手に取り広げてみると、自分の物よりも一回り程大きい制服の上着だった。 セナは吃驚して、思わず固まってしまう。自分の物でなければこれは、今部室内に存在しているもう一人の持ち物と言う事になる。 「あの、ヒル魔さん、これ…」 「そこに置いとけ。俺はもう着替える。糞チビもさっさとしろよ。部室の鍵が掛けらんねぇだろうが」 あっさりと、肯定されてしまった。セナは何所かで、この上着は部員の誰かの忘れ物で、それを勝手に拝借して眠りこけるセナの上に被せたのだと思っていた。それにヒル魔は何故、セナが部室で眠っているのを発見した瞬間に叩き起こさなかったのだろう?セナが頭上にハテナマークを浮かべていると、ヒル魔がアッサリと答えをくれた。 「蹴ろうが叩こうが引きずろうが、何やったって起きやがりゃしねえ。もう23時を回ったぞ。都電の終電が無くなるぞ」 「えええ?もうそんな時間ですか?!」 セナは大慌てでベンチから飛び起き、ヒル魔のロッカーから一つ開けた左隣の自分のロッカーに齧りつく。 ばたばたと着替えながら、再びセナははっと思い当たった。 「あの、ヒル魔さんはこんな時刻まで、どうしてたんですか?」 「あん?んなのは決まってんだろうが。練習だよ練習。今日の昼練は糞デブとのスカウティング作業で大して身体を動かしてなかったからな。一通り汗掻いて来た」 セナは更に吃驚してしまう。何気無く聞いてみたが、答えは返って来ないだろうと思っていたからだ。セナは呆然と、思ったそのままを口走っていた。 「ヒル魔さんって、そう言う努力は表に見せない人だと思ってました。努力していてもそれを隠して、まるで周囲に超人だとでも思わせる様な、そんな人だって…」 「………それが必要な時はそうする。だが今は、そんな必要ねーからな。んな面倒なことはしねえ」 それが必要な時?セナは何故だか、その言葉が引っかかった。どうしてそれが引っかかったのか、セナには確かな理由は分からない。それでも確かにこの時、その言葉はセナの胸の内に仕舞い込まれた。 「おら、下らねー事くっちゃべってないで、さっさと着替えやがれ!帰んぞ!!」 ヒル魔にそう急かされて、セナは再びあくせくと着替えを再開した。
その日、家に帰り着き、風呂から上がって、ヒル魔から教えられた通りに足にマッサージを施していたセナは、ある不思議な感覚に気が付いた。 両足が、お風呂から上がって時間が経った今でも、随分と暖かい。 ほこほこと温もっている足に、セナはしきりに首を傾げ見つめた。 その内に、ふっと気が付いた。 左足首の内側に、ほんのりと、紅く色付いている箇所がある。 そこが一番暖かかった。 指先でそっとなぞってみる。だが、打ち身ではないのか、痛くは無かった。 どうしてそこが紅いのか、どうして両足が暖かいのか、関連性は見つけられなかったが、眠気は容赦なく襲って来る。足先が暖かい所為で、それは尚更逆らい難い誘惑になっていた。 別段、起きていなければならない理由は無かったので、セナは素直にその誘惑に身を任せ、眠りについたのだった。
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