ポロポーズ・ヒル魔編

 

 

 

 ねえ、ヒル魔さん。人は死んだら、どうなるんでしょうね?

 

 僕、生きている物には、魂くらい在るんじゃないかって思うんです。

 

 だって、生きているってすごく不思議な事じゃないですか?

 

 でも、死んだら魂はどうなっちゃうんですかね?

 

 ヒル魔さんは死後の世界って在ると思いますか?

 

 

 

 

 ヒル魔の腕の中に、最初から其処が適所であるかの様にすっぽりと納まった少年は、映画のスタッフロールが流れ終わった後の青い画面を見つめ、頑是無い幼子の様に拙い質問を打つけてきた。

 瞬間、ヒル魔はゾッとしてしまう。セナにはそんなつもりは無かっただろうが、その唇から死を思わせる台詞が発せられる事自体、ヒル魔には堪らなかった。

 腕の中の暖かく優しい温度と心地よい重みは、既にヒル魔の奥底に馴染んでしまい、はぎ取ろうとしても複雑に絡み合った糸の様に用意ではない。それは、ヒル魔に取っては脅威だ。

 ヒル魔は、独りに慣れすぎていた。むしろ、人に触れられる事が煩わしくてならない。勿論、自分独りだけで生きていけるとは到底思ってはいない。今自分が纏っている服や、住んでいる家、食料に水。どれ一つ取ったとしても、ヒル魔一人ではどうにもならないほど人の手が入り込んでいる。だが、それら生きて行くのに必要最低限の日常以外に、他人にヅカヅカと踏み込まれてなるものか…と構えている節があった。

 それは、幼い頃から独りになる事の多かったヒル魔が出来る防衛手段であったのかもしれない。だが今現在に於いて、すでにそれはヒル魔の性格を形作る一つの特徴となっていた。

 そんなヒル魔が、唯一、侵入を防ぎ切れなかったのが、セナと言う少年だった。それどころか、自ら進んで招き入れた節すらある。

 セナは、ヒル魔に取っての唯一で、特別な存在なのだ。

 死は、そんなヒル魔から、セナを、根本から奪い取ってしまう避け様の無い現実だった。セナの温度が感じられない世界など、ヒル魔には何の意味も無い。

 ヒル魔は神秘主義など、欠片も信じてはいない。細胞が分かたれ成長すれば、微電流が流れ始めその刺激で鼓動も生まれはするが、細胞分裂の止まった電気信号も伝えられない死んだ人間に、その後の世界を知覚出来る能力が備わっているとは到底思えない。

 死は、虚無でしか有り得ない。

 そしてもし、その虚無の世界に独り取り残される事となれば、セナの存在を得てしまったヒル魔は、その孤独に今度こそ耐え切れないだろう。

 だが、同時に、ヒル魔の中には、囁く甘い誘惑がある。

 死は、セナの身体と己の身体の境界を、無くさせる可能性が生まれる。

 ヒル魔は、未だに時々、二人と言う現状に慣れ切れない事がある。抱き合い、温度を分け合う事は出来ても、鼓動を一つにする事は決して叶わない。セナの少し早めの鼓動は、ヒル魔を落ち着ける事もあれば、ヒル魔を途方も無い孤独に落とし込む事も在る。

 二つと言う事は、いつかは一つになる可能性もある。それは死だけとは限らない。セナの心を疑っている訳ではない。だが、流され易い心優しい少年を、強引に己に縛り付けた自覚がヒル魔にはあった。

 何時かは自由を得たがる日が来るかもしれない。

 死は、そんな恐怖をヒル魔から無くさせる、絶好の機会となるだろう。

 己の内に確かに潜む狂気に、ヒル魔はくつりと喉を鳴らした。

 狂気は、甘い味がする。何故ならば、ヒル魔にそれを与えられるのはセナだけだからだ。

 ヒル魔は、その狂気を、セナに伝える事に躊躇いは感じなかった。

 その時ヒル魔は、怒っていたのかもしれない。ヒル魔に死の戦慄を感じさせた少年に対して………。

「ああ、もしお前が俺より先に死んだら、その身体を骨の髄まで喰らってやるよ。髪の毛一筋たりともこの世の何処にも残してやらねぇ。で、喰い終わったら、俺も死ぬ」

「全部ですか?骨も、歯も、爪も、髪の毛も、全部?」

 対して、ヒル魔の狂気を向けられた筈のセナは、随分と検討外れな質問を返してきた。その声に、怯えや嫌悪感が含まれていなかった事に、ヒル魔は途方も無い満足感を覚える。これだから、ヒル魔はセナを拒絶出来ない。セナは、その小さな身体で、全身全霊でヒル魔の全てを許容しようとする。

 それはとても得難い幸福だった。

「ああ、全部だ。俺の手で砕けそうな骨も、唇から覗く白く小せー歯も、男の癖に桜の花びら見てーに整った爪も、どんなに直したって跳ねる頑固な髪の毛も、全部」

 ヒル魔の身の内を蝕む感情は、こんなちっぽけな言葉だけでは表しきれない。だが、幼い頃より伝えるといった手段を、合理的にしか使用してこなかったヒル魔は、素直に己の感情をそのまま伝えると言った事には不得手だった。

 しかしセナが最近、そうやってヒル魔が全てを伝えないでいると、深く掘り下げてくるようになった。

 セナに己の全てを伝えてしまえば、その重みに何時かその小さな身体が潰れてしまうのではないかと何所かで考えていたヒル魔は、当初セナの積極性に躊躇った。ここで黙り込むのは容易い。ヒル魔は、セナとはずっと、長く付き合って行くつもりなので、少しずつ、ゆっくりとそれを進めて行く予定でいた。

 だが、人間同士の関わりと言うものは、予定で全てを図れるものではない。それが、生涯を近しく過ごして行こうとする比翼の羽の片割れとなれば、よけいにそうだろう。

 ヒル魔にも、己を理解してもらいたいと言う欲求があったからこそ、不得手であろうとしてもゆっくりと、伝えて行こうと言う意思があったのだ。ヒル魔を心の底から理解したい…ヒル魔の思いを共有したいと言うセナの働きかけを、嬉しく思うのは止められない。

 そうして、ヒル魔とセナの一問一答は、今日も繰り返される事になる。

 

「あの、いくら僕が小柄だからって、自分と大して容積に差が無いものを食べ切るのは、相当大変だと思うんですけれども、それでもですか?」

「そうだな。喰ってる途中で腐りそうだよな。それでもだ。腐肉の塊になっても、その汁すら啜ってやる」

「それに僕、多分よぼよぼのお爺さんになるまで死ぬつもり無いんですけど、その時はヒル魔さんもお年を召されてますよね?今よりも体力も無くなってて、更に大変だと思うんですけど、それでも?」

「俺がよれよれの糞ジジーになってようが、やると言った事を諦めると思うか?お前がすっかり枯れて筋張って固くなっても、俺が総入れ歯になってても、それでもだ」

「………ヒル魔さんのそういれば………想像出来ないや」

 セナは、くすくすと、本当に可笑しそうに笑った。ヒル魔の腕には、セナの腹部がくすくすと揺れる感触が直接伝わり、セナの背中と接触しているヒル魔の胸には、その音が直接響いた。

 それでも、全然足りないのだ。セナといると、もっともっともっとと、何処までも際限無くセナの存在を求めてしまう。そのうちに、本当にセナを喰らってしまうのではなかと思う程、ヒル魔の欲求は深い。

 大人しく両腕に納まっているセナを、抱き潰してしまいたくて、ヒル魔は仕方が無い。ちょっと腕に力を込めれば、それでセナを何処にもやらないですむような錯覚に陥れる密着度の高いこの体勢が、ヒル魔の一番のお気に入りのセナの抱き方だ。

 それは、セナの些細な変化まで如実に伝えてくれる抱き締め方でもあった。

 セナの雰囲気が急に緊張したそれに変わる。

 腹部が大きく一度、上下した。

「ヒル魔さん。どうしてですか?」

 ヒル魔に質問をする様になり、セナは本当にヒル魔の本心を嗅ぎ分けるのが上手くなった。巧みに、ヒル魔が微妙に話題を変更しようと試みても、それが大切な事であればある程、セナは真正面に核心を突いてくる。

 ヒル魔は、独占欲を隠そうとすらしていなかったが、それでも、それをわざわざ好んで口に上らせる事はしない。言ってしまえば、それこそ端的に説明すれば、『実家には帰るな。24時間ずっと俺の傍らにいて欲しい』と言う事になる。さすがに、それはヒル魔の自尊心が相手に伝える事を許さなかった。

 まるで幼子が母親に縋り付いて離れないようだと、ヒル魔はそれを伝える自分を想像してげっそりした事がある。

 セナにはまだ、両親も、周りの友人達との関わりも必要だ。ヒル魔だけが独占していていい筈が無い。

 だが、長く生きた後、その老いた身体を、ヒル魔の自由にしても良い権利くらい、主張したかった。

 自尊心と独占欲が散々葛藤した後、ヒル魔は漸く重たい唇を開いた。

「てめえの身体を、死んだからって、他の奴らに勝手にされて堪るかってんだよ……………」

 セナは、ヒル魔のその呟きに、緊張して僅かに固くなった身体の力をぐにゃりと抜いて囁いた。

「それで、僕を食べ終えたヒル魔さんの身体は、どうするんですか?僕だって、ヒル魔さんの身体を他の人に勝手にはして欲しくない」

「そうだな。そんときゃ俺は立派な死体損壊容疑で見事犯罪者だ。死ぬときは、誰の眼にも触れられねえ場所にでも逃げ込んで、後は朽ちるに任せる」

「ヒル魔さんが、逃げるんですか?それも想像がつかないなぁ」

「てめえを喰らった俺の身体を、糞有象無象に触れさせたかーねえんだよ」

 セナの重みがなおさら感じられ、ヒル魔はその重みに勇気づけられる。セナは、ヒル魔がどんな姿を見せたとしても、拒絶する事は今まで無かった。これからもそうであって欲しい。神にすら祈らないヒル魔が、セナに祈る。

 そしてそれはきっと聞き遂げられる。ヒル魔は、セナの重みに、そう確信していた。

 

「………もし、俺がお前より先に死ぬ事があれば」

 幸福な沈黙の後、ヒル魔はボソリと呟いた。何気なさを装ったと言うのに、セナは敏感にヒル魔の雰囲気の違いを読み取り、振り返りたそうに身じろいだ。しかしヒル魔は、己の表情を見られたくなくて、セナの丸い後頭部に強く唇を押し付けた。こうすれば、セナが無理に振り向こうとすればヒル魔の口内が切れてしまうだろう。それが解っていて、セナは無理を通せるような性格ではない。

「ヒル魔さん」

 実力行使に出たヒル魔に、セナは声色で訴えてきた。

 セナは、ヒル魔に、持てる力全てで打つかってくる。ヒル魔は、『それ』を隠しておくのは正直フェアではないと思った。だが、それを伝えている間の己の表情を見せられる程、ヒル魔は思い切れなかった。

 考えた事ではなく、思った事を伝えるのは不得手だが、きっと今この時を逃してしまえば、恐らくヒル魔はこの言葉を呑み込み、無かった事にしてしまうだろう。出来れば伝えない方が、ヒル魔に取っては安心だからだ。

 ヒル魔は、セナに何も残してはやれない。生物の根底に在る己のDNAを次世代に残すという本能を叶えてやれないし、生物の喜びである子育ても経験させてやれない。その可能性は、ヒル魔が全て潰してしまった。それなのにその責任を負わずに、ヒル魔がセナを残し先に死ぬ事があるのだ。

 ヒル魔の願いを叶えてくれるセナに、ヒル魔はある願いを叶えてやる事は出来ない。それは、『自由』と『命』だった。

 ヒル魔自身は独りに慣れすぎて、セナ以外、何も欲しいとは思わないが、セナまでもがそうであるとは限らない。それでも、ヒル魔は己が生きている間は絶対に、セナを手放せない。セナが離れて行こうとしたら、殺してしまうだろう。

 セナがヒル魔から自由になれるのは、ヒル魔の死後…それしかないのだ。

 『命』はどうにもならないが、『自由』ぐらいは叶えてやりたい。それでも、ヒル魔の死後と言う条件付きだが、それは言い換えれば、セナになら殺されても良いと言う、セナの居ない孤独を恐れたヒル魔の甘えだった。

 セナは確かにヒル魔の腕の中に居るのに、ヒル魔は来るかも解らない未来の孤独に苛まれる。温もりが、余計に独りを実感させた。それにヒル魔の心は揺らぐ。

「そん時ぁ、仕方ねえから、てめえの好きなようにしろ。俺みたいに後を追えなんて遺言も残さねーから、安心して自由を謳歌しろ。お前が、自由を満喫出来るのは、俺が死んだ後だけってことだな。俺の独占欲は半端無ぇが、そこまで、強欲に出来ちゃいねえ………

 …………俺は、死後の世界なんざ、これっぽっちも信じちゃいねえからな」

 それは、ヒル魔の精一杯の告白であったかもしれない。言葉の奥底に潜む、死ぬ時まで関わっていて欲しいと言う願いが浅ましく映っていた。ヒル魔は、堪え切れず、セナの身体をギュウギュウに抱き潰した。

 

「ヒル魔さん。手、離してください」

「…………嫌だね」

「ヒル魔さん。僕だって、あなたを抱きしめたいんです。ヒル魔さんばかりずるい」

 ヒル魔は、この手を離してしまえば、今にもセナが飛出して行ってしまうような錯覚に陥っていた。ヒル魔が心の底から求めてきたものは何時も、ヒル魔の目前でするりと手の平から逃げて行った。だが、セナが現れて以来、それらは少しずつ、ヒル魔の手に触れられるようになってきていた。だが今度はそのセナが、ヒル魔の両腕から逃げてしまうのではないかと考えてしまうのを、己の浅ましさを知っているヒル魔は止められない。

 そのセナが、逃げるのではなく、ヒル魔を抱き締めたいと言っている。

 ずるいと言う言葉が、負けず嫌いのヒル魔に意地を思い出させる。それはセナが逃げるのではと言う恐怖を少し上まり、ヒル魔の腕の力を緩めさせた。

 ヒル魔が腕の力を緩めると、セナはさっと膝立ちになる。そのまま立ち上がり逃げるのではとヒル魔が身構える前に、ふうわりと、ヒル魔の頭部を優しく包み込む感触がした。

「こんな事は、自然には無茶な事かもしれないけれど、ヒル魔さんの命の灯火が消えてしまう時、僕の命も消えてしまえたらって思います。あなたのいない世界で、僕は、息なんて出来ない。自由なんて無い。きっと苦しいばかりです。それに、ヒル魔さんより先に死んでしまうのも嫌です。あなたにそんな思いさせたくないし、やっぱり、僕を食べ切ってしまうのは、大変な事だと思うから。死ぬ時は、一緒に、手をつないで、穏やかに、眠る様に死ねたら、いいですね」

 ヒル魔はとっさに、言われた意味が理解出来なかった。

 それは、本当に理想だった。

 ヒル魔の不安や願いを全て救い取ったかのような、最高な提案だとヒル魔は遅れて理解する。

 くつくつと、笑いがこみ上げてくる。それはヒル魔が先程、狂気の甘みに鳴らした喉の音とはまるで違っていた。

 細い腕が、ヒル魔を慈しむ様に、頭を抱え込んでいて、セナの表情が伺えないのを、ヒル魔は如何にも惜しく感じる。セナがずるいと言った言葉が、漸く身に染みた。

 お返しとばかりにヒル魔は更に力を込め、セナの細い胴体をギュウッと抱き締めた。

 愛してる愛してる愛してる。言葉だけじゃ足りない。話術の巧みなヒル魔が、セナの前ではそんなものちっとも役に立たない。ヒル魔は言質の足りなさに、初めて歯咬みをした。だが、それのなんと幸福な事と言ったら…!

「けけけっ!何だそりゃ、最高に最高な死に際だな、おい。確かに一緒に死んじまったら、何の心残りもねえな!よし、人生の最終目標を、今日からそれに定めてやるよ。覚悟しとけよ、糞チビ!!」

「覚悟するのは、ヒル魔さんの方です!」

 ヒル魔とセナは、互いに抱き締め合いながら、大笑いした。

 

 願わくば、生涯の灯火が消える瞬間、死ぬ時まで一緒で嬉しい、と思わせるような一生を、共に過ごして行きたい。

 なんと甘く、なんと最高で、なんと………

 

 なんと幸せな、プロポーズ

 

 

 

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