他人から見た関係性・1

 

 

 パシン───……。

 

 乾いた音が屋上に響いた。セナは思いもしない衝撃に、叩かれた左頬を押さえるのも忘れ、目を見開き固まった。

 まさか女の人に叩かれる事があるなんて…と、何処か間延びした思考でそんなことを思いながら、自分を叩いた後、肩で息をしている人を見つめ続けた。セナを叩いた右手の指先は、真っ赤になっていた。

 ここがせめて明るい日の光の下で良かった。セナがいつも暴力を奮われる場所は暗くじめじめとした物陰で、それだけで気が滅入ってくる。けれど明るい光の下では、相手の様子も手に取るように判る。理不尽な扱いに慣れているセナでも、何故自分がそうされるかくらいは、知りたかった。

 セナを叩いた上級生らしい女の人の後ろには、更に二人、同じく上級生らしき女の人が立っていたが、セナを叩いた彼女の行動を驚きもせず、冷たい瞳で眺めているだけだった。

 まったく知らない人だ。セナは思った。自分とは全然関係なさそうなこの人達に、自分は一体何をしてしまったのだろうか?喝上げともまた、雰囲気が異なる相手の様子に、セナは全く心当たりが思い浮かばない。

 セナは身動きすることも出来ず、ひたすら目の前の人物を見続けるしかなかった。

「アメフト部を辞めて」

 絞りだすように低く響いた声は、固く、それでも躊躇い無くセナに向かって発っせられた。

 アメフト部?!余りに意外な要求に、セナの金縛りが漸く解ける。

「なんで…」

 ポツリと呟かれたセナの声は、風にさらわれそうなほど頼りなげだったが、相手には届いたようだった。

「もう、ヒル魔くんと関わらないで」

 関わるなと言われても、セナはアメフト部の部員で、選手でもある。もしセナがアメフト部を辞めたがっても、恐らく話題にしたヒル魔自身が何が何でも関わらせようとするだろう。

 しかし、目の前のこの人達は、自分が選手であることを知らないはずだ。それで何故、セナをアメフト部から辞めさせたいのだろうか?要求は判ったが、その意義を見出だせず、セナは更に戸惑った。

「あの、無理です。僕、主務ですし、アメフト部を辞める訳にはいきません。それにヒル魔さんは、アメフト部の中心的存在で、試合や練習の打ち合せに欠かせない人です。関わらない訳にもいきません」

 仕方なく、今セナが言える範囲で現状を説明し、引き上げてもらうことにした。相手の真意が判らないセナは、これで納得してもらうのは難しいだろうな、と何処か冷静に感じた。けれども、納得してもらえなくても、諦めてもらうしかない。

 セナは、アメフト部を辞めるつもりなど、ちっともないのだから。

「解らない子ね。無理とか、そう言う問題じゃないの。これはお願いじゃない。アメフト部を辞めなさい。それが引いては、アメフト部…ヒル魔くんの為になるんだから」

「ヒル魔さんの為?どうして…」

 そうなるんだろう?セナは心の中で呟いた。だって、アメフト部に、否、アメフト選手に…とセナの意志を無視して無理矢理引き込んだのは、ヒル魔自身だ。と言うことは、セナはアメフト部に必要なはずだ。辞めたほうがアメフト部の為になるとは思えない。

 ああ、でも、この人達は、その事を知らない。どうやって、それを説明したらいいんだろう…

 未だ、説得しようと考えているセナの様子を敏感に察したのか、セナの頬を張り飛ばした女生徒は、更に畳み掛けるように言い募る。

「ほら、今も、私の言葉をすんなり理解出来ないじゃない。あなた、主務なのに、全然役に立っていない。それどころか仕事を増やしてヒル魔くんの負担になってる。それだけじゃない。主務の仕事も満足にこなせないのに、選手でもないのに遊びで練習に参加して、ヒル魔くんの周りに付きまとって。練習の邪魔になってるって判らない?それでどうして、アメフト部に自分は必要だなんて思えるのかしら。…ヒル魔くんもこんな役に立たないの、何時もならすぐに切り捨てているはずなのに………どうして、側に置いておくの………どうして、あなた見たいな何も無い子が、ヒル魔くんの特別なの?!」

 止めどなくセナに振り降りてくる悪意の言葉に、うすぼんやりとした既視感を感じ、気が付いた。

 この人は、きっとヒル魔さんが好きなんだ。でも、同じくらいヒル魔さんが怖いんだ。要らないと、捨てられるのが怖いんだ。だから、捨てられない様に、捨てられる前にヒル魔さんに近づけない。この人は、痛みを恐れて、痛くなる前に逃げていた僕と、一緒なんだ。

 でも、だからと言って…

「ヒル魔さんは、役に立たないからと言って、切り捨てるような人じゃありません」

 普段とは異なる状況に加え、恐らく上級生であろうと思わしき相手に、遠慮しながら話していた先程のセナはもうここにはいなかった。風に流される事の無い、はっきりとした声色で、セナは力強く言い切った。そしてセナは思う。

 そうだ、それどころか、自分に不利にしかならなくても、それでも共感出来るもの、信じるもの、慕ってくるものは、全て抱え込んで、それで重くなっても、足を引きずっても、血を流しても、それでも前に進んで行く人だ。

 勿体ない。この人はとても勿体ない事をしている。普段のヒル魔さんの態度に誤摩化されて、本質に近付けないでいる。確かに、必要の無いものは極限まで振るい落として行くけれど、役に立たないなんて理由で、自分を慕ってくるものを無下に扱ったりはしないのに…

 ヒル魔さんが怖くて、けれどもヒル魔さんを諦め切れないから、こうやって、役に立っている様には見えないのに側にいられる僕に、嫉妬している。

 だけど、それじゃ駄目なんだ。僕が、膝を抱えて、丸まっているだけじゃ世界を知る事が出来なかった様に、この人もヒル魔さんを、知る事が出来ない。

 この人は、僕に行動をぶつけないで、ヒル魔さんに行動をぶつけなければいけない。

 けれども、その事をセナが言ったとして、セナに敵愾心を抱いている目の前の人には素直に聞き入れるのは容易ではないだろう。それどころか、火に油に違い無い。

 こちらの意思だけを簡潔に伝えよう。セナは、息を吸って、鳩尾に力を入れた。

「だから、僕はヒル魔さんの特別じゃありません。それに、役に立っていなくても、アメフト部に必要じゃなくても、僕は辞めません。だって、僕はアメフトが、大好きだから」

 後ろの二人がセナのその言葉に鼻じろむのが視界の端に映った。セナに正面切ってそう言われた女生徒が、さっと右手を青空に振り上げた。けれども、自分に非が無いと解った今は、もう叩かれてあげる訳にはいかない。

 幸い、相手は三人いたが、囲まれている訳ではなかった。囲まれていたら、女の人を押しのけるなんて、セナには出来やしない。さっと後ろにスッテプを踏んで、振り下ろされた手の平を避ける。そしてそのまま三人の横を素早く通り抜け、屋上から出られる唯一の昇降口の扉の取っ手に手をかけた。そこでセナは、呆然とセナを見送ってしまった女生徒達を振り返ってしまった。

 これは、当人だけの繊細で大切な問題だ。と思ったが、どうしても、セナは伝えたい事があった。

「ヒル魔さんを………アメフト部を心配してくれて、有り難うございます!」

 非難していた相手に、こんな言葉を言われても、皮肉にしか聞こえないかも知れないけれど、ヒル魔を好きだと思った気持ちを、捨てられるのが嫌だからといって、自分で殺してしまうのは悲しすぎると思ってしまった。

 自分の言葉が、踏み止まってしまった人の背中を少しでも後押し出来れば。

 セナも背中を押してもらって嬉しかった経験を持っていた為に、余計なことだと判っていても、そう言うのを止められなかった。

 その言葉と共にお辞儀して、さっと扉の向こうに姿を眩ませたセナは、そう言われた女生徒が、それまでの激した表情を一変させ、冷たいまでの無表情になった変化を見る事がなかった。

 自分が言った言葉が、相手にどのように届いたのか知らないまま、一年の教室に戻ろうと階段を下りていたセナは、暢気に…

(あの人達の嫉妬がまもり姉ちゃんに行かなかったのは、やっぱり仕事が抜群に出来るからなんだろ〜な〜)

 なんて考えて、自分の現状を振り返り、がっくりと肩を落としていた。

(でも、僕がアイシールドだって知らない人達からは、僕の存在って、そう映るんだ…。ヒル魔さんは、アメフトに関しては、すごく公平で真摯な人なのに、贔屓してるとか、そう見られるのはなんか嫌だなぁ。これから、選手も主務も、もっともっと頑張ろう!)

 決意も新たに進むセナの足音は、軽やかに廊下に反響していた。

 

 

戻る