走れよ流れ星・1

 

 

1・少し先の未来

 

 二人の間に、春も盛りを越え青葉の息吹を色濃く纏った強い風が吹き抜ける。しかし、目の前の男が発した言葉はそんな風に吹き飛ばされることも無く、真直ぐに鋭くセナに突き刺さった。

「え?」

 全く予想だにしない突拍子もない台詞に、セナは小さく聞き返すことしか出来ない。

 今、この人は、なんて言ったのだろうか?聞こえなかった訳ではない。きちんと、言葉の意味も判っている。けれども、それと理解は別物だった。

 優柔不断で決断力にも欠けるセナは、頭の回転も普通の人よりちょっぴり緩やかだ。しかし、決してそれだけが理由ではない。

「…十秒待ってやる。その間に出来るだけ遠くに逃げるんだな」

 セナにひどい混乱を与えた目の前の男は、そんなセナの様子をまるきり無視してどんどん話を進めていってしまう。

「え?えぇ?!」

 セナは只でさえ大きな瞳をさらに丸くして、戸惑った。あまりに事態が目まぐるしく動きすぎて、咄嗟に、言うべき言葉も、取るべき行動も、何も浮かんでこない。

「ほら、もう数え始めるぞ。待った無しの一発真剣勝負だ。いーち…」

「ええええええ?!!」

「にー…」

 判らない。判らないけれども、このまま数をかぞえ切られてあっけなく捕らえられてもいいものだろうか?

 セナがまだ理解とは程遠い状態にあるのは、数をかぞえているこの人にも、十分に伝わっているだろう。セナとは違い、凄まじいまでの頭の回転と、観察力を誇っている人物だ。しかし、いくらセナが戸惑い、混乱の境地にいて思うような行動が取れないでいると判っていたとしても、やると言ったことはやる人だ。

 このまま何もしないで、理解とも程遠い状態で、ただ捕らえられるのを待っているだけで、本当にいいのだろうか…

 真剣勝負と、この人は言った。何も恐れず、セナなぞ、小指の先を動かすよりも簡単に操れるようなこの人が、勝負と言ったのだ。

 ───何も判らないままで、何もしないままで、ただ捕まってしまうのは嫌だ。

 ひたすら混乱の境地にいたセナの中に、一つだけ、確固たる意志が浮かんできた。

 せめて、理解出来るまで。この人自身が見出してくれたこの足で、逃げ切って見せる。

 セナは、一度に沢山の事を決められない。しかし、一度一つの事を定めてしまうと、それだけに向かって脇目も振らない。

 ぐっと両足に力をこめると、大地を蹴り上げた。ぐんっと身体が慣性の法則に従い、その場に留まろうとする力がセナの身体を引っ張る。セナはその押さえ付けられる感覚をあっと言う間に振り払い、細くたなびく土煙を残しその場から駆け出した…

 

 

2・現在

 

 セナは、生まれて初めて、本当の挫折と言うものを味わった。

 今まで不良達にいいように使われ、学業も運動もまるで上手くはいかず、コンプレックスの塊ではあったが、それは、どこか仕方がないものとして、努力する前から諦めている節があった。

 物心がついてから初めて、自分の意志で勝ちたいと心の底から思った。それが、無理矢理選手として参加させられたはずの、アメリカンフットボールの試合だった。

 結果は、見事な惨敗だった。たった一度だけ、セナが心の底から抜きたいと思った王城の進を、その槍(スピア)と呼ばれる鋭い手に触れさせる事無く、アーモンド型の硬いボールを敵陣に突き立てることが出来たが、それだけだった。

 アメフトは、専門職を求められるスポーツだが決して個人で試合をしているわけではない。アイシールドとして一度だけ勝負に勝利したって、チームとして試合に負けてしまえばそれでお仕舞いだ。

 初めてと言っていい強い勝利への欲求。そしてそれは叶わなかった。

 セナの中で、今までに味わった事の無いフラストレーションが沸き上がった。何より、その試合ですべてを出し切れたと言えるだろうか?と言う思いが拭いきれなかった。直前まで、試合に出る事を躊躇い逃げようとしていたのは自分なのに、その試合に向けて十分な努力をしたとは言えない状況に途方も無い口惜しさを覚えた。

 こんな考えは詮無いものだと判っているが、もっと早くに、このスポーツに出会っていれば…と言う思いが沸き上がり、居ても断ってもいられなかった。

 耳の奥には、まだ、試合での歓声や、敵味方の掛声、アメフトを知る切っ掛けをくれた、大きな身体を持つ優しい人の大きな泣き声が、わんわんと響いていた。試合直後、もう、終わってしまったのだと言う感覚が掴めなくて、泣く事も出来なかったセナは、今になって漸く、自分の中に吹き荒れる処理しきれない感情に、部の先輩に命じられた写真整理の手を止め、怯えや悲しみではない初めての涙を零した。

 その涙は、今まで味わった事の無い酷く辛く苦いものだった。

 

 校庭にポツンと取り残された梯子。辺りには既に土砂降りと言っていい程の雨水が降り注いでいた。このまま雨ざらしにして置けば、大切な道具は直ぐに痛んでしまう。

 まだ終わりではない。そう知らされたのはつい先程。と言うことは、この梯子にはこれから先まだまだお世話になる。主務として…否、それ以前に現在のアメフト部唯一の後輩として、道具の後片付けは重要な仕事だ。

 けれどもセナは、雨に濡れたラダーを見つめ、身の内に宿った不思議な熱を冷ます事が出来なかった。

 まだ、終わりではなかった…!

 その思いだけがセナの中に駆け巡り、気が付けば傘も鞄も放り出して、雨で抜かるんだ地面に滑りながら、必死にラダーの穴をを踏んでいた。

 春大会があまりに早く過ぎ去ってしまった所為で、時間は幾ら有っても足りない気がした。

 セナの細い体躯に突き刺さるように雨粒が降り注ぐ。幾度か足を滑らせて転び、雨水や泥水を吸い込んで重くなった上着が邪魔で、泥に汚れるのも気にならず、ぐちゃぐちゃな大地に投げ捨てた。

 ラダードリルをして動き、少し暖まった身体は、四月の雨の冷たさがあっという間に熱を奪い去り、白いシャツは肌色を透かしてピタリと張りついた。

 けして、こんな悪い環境で練習をして上達に結び付くとは思わない。

 それでもセナは、身の内に宿った不思議な熱が身体を焼く、じりじりとした落ち着かない感覚を吐き出す統べを、他には思い浮かばない。

 雨で抜かるんだ地面の方が先に、セナの素早い脚の動きに耐えられず、ぐにゃりと湾曲し悲鳴を上げた。急に変わった身体のバランスに、まだまだ華奢と言えるセナの筋肉は堪えられずにとうとう再び倒れこんだ。

 ばちゃん!

 雨で灰色に煙る世界に、唯一眩しく光っていたセナの白いシャツは、あっと言う間に薄汚れた茶色に染まった。 しかしセナはそんな身体には頓着せず、顔に跳ねた泥水を拭うことも無く、再びステップを踏もうと細い脚に力を込める。瞳に張りついた焦げ付く光は多少泥水を被った所で消える様子すら無い。

 ダパパパパッ!

 急に足元の泥水が鈍い音を響かせながら弾け散る。その音はざあざあとざわめく土砂降りの雨音とはどうやっても混じる事無く異なり、セナの身体に泥水を跳ねさせながら、異様に良く響いた。

 今にもラダードリルを踏もうとしていたセナは、その音に茫然となった。何時まで経っても慣れることのないその響きを聴かせる事が出来る人は、一人しか知らない。

「糞チビ、早く道具を片付けろ!」

 ざあざあと辺りに響く雨音にまったく負けない力強い声が、セナを射った。

 はっとするほど鋭い響きに、セナは、妄執とも呼べる衝動に混然としていた意識が断ち切られ、現世に呼び戻されるのを感じる。

 あまりにも急激に意識を浮上させられた激しい変化に、銃弾を打ち込まれた茶色い地面をぼうっと見つめていたセナは、声のする方向にのろのろと顔を向ける。

 そこには、真っ黒な蝙蝠傘を差して、薄暗い灰色の世界に鋭く切り込む黄金色の髪を逆立てた、細身の人物が立っていた。

 校庭と校舎を区切る土手の上に立ったその男を見上げ、セナは夢から覚めたばかりの幼子のようなたどたどしい表情で呟いた。

「ヒル魔…さん…」

「用具が痛むだろうが!何時までもつっ立ってないで、早くしろ!!」

「は、はいぃぃ!!!」

 覚束ない表情だったセナの顔は、とたんに何時もの困ったような、怯えたような表情に戻り、足元に転がった茶色く染まった梯子を纏め始めた。

 きっかけは違っていたが、セナに新たな世界を何時も与えるのは、怒号を聞かせるこの人だ。与えるのもそれを奪うのも自由自在な男の命令に、逆らうことすら思い浮かばず、セナは慌てて従順に指示に従う。

 自分ではどうすることも出来なかった衝動を、ただの一喝で意図も簡単に断ち切られた事実に気が付くこともなく、セナは体育館内に設置された、ほぼアメフト部の用具入れになっている体育館倉庫に向かって、小さな両腕からはみ出さんばかりの梯子を抱え走った。

 グラウンドには、いっぺんには運びきれないとセナが残した、アメフトの特有な形をしたボールがポツンと一つ残されていた。

 

 

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