走れよ流れ星・2

 

 

3・少し前の過去

 

 ヒル魔は心の中で一つ溜息を吐いた。

 この試合も終わりだ。

 まだ試合終了のホイッスルは鳴らされてはいないが、結果は見えていた。

 ここからの勝利は既に欠片も存在しない。

 どの試合一つとっても捨てるつもりなどないが、それも飽く迄勝利出来る可能性がある試合のみだ。端から既に負けが決まっている試合をぐだぐだ続ける気はない。これ以上、この試合に実りがあるとは思えない。それどころか、先の見えた試合運びに気が抜けたり、もしくは妙に気が競ったりして集中力を欠き、怪我をしてしまったらもともこも無い。

 それよりは、今日得られたデータを元に、新たな戦術の組み立てと、それに見合う練習方法を考えた方がよほど有意義に思えた。

 今年入学したばかりの助っ人新人のデータも、前回と今回の試合で凡そは採れた。やはり、事前に入手していた身体情報と、実際の試合での動きとは異なる点が多い。こちらが指示しなければ全く動けない奴もいれば、アメフトのルールなど知りもしないのに、自分で考えより良い働きをした者もいた。

 何より、去年の王城との練習試合の結果が痛いほど身に染みていた。重傷者を二名ほど出したあの試合の後、アメフトの助っ人を引き受けさせるのに、随分苦労するようになったのだ。

 さっさと帰り支度を進めるヒル魔の傍らで、とても高校生とは思えない巨体の持ち主が大地に崩れ落ち惜しみなく涙を溢れさせていたが、それもヒル魔の手を止めるには到らなかった。

「もう少し……」

 ポツリと呟かれたその言葉は、距離が離れているにも拘らず、何故かヒル魔の立ち去りかけた背にまっすぐに届いた。

「あの…もう少しだけ…」

 何を言うにも自信無さげで、はっきりとした言い方が出来ないその声は、その性質どおり聞こえにくく、ヒル魔の何者にも遮る事が出来なさそうな確固たる歩みを止める力など、まるで無さそうなのに、ヒル魔は何故かそのか細い声に足を止めてしまった。

「今言っただろ?最後まで頑張るだとか…」

 何時もの言う事を聞かせるを為の怒号ではなく、ヒル魔のその声は静かに、いっそ冷たく響いた。

 まるで譫言の様に呟いた小さな背の持ち主よりも、その周囲を囲んでいたむくつけき身体を持った男どもの方が、ヒル魔のその声色に、大きな身体を縮込ませる。

「抜けるかも…!!」

 それなのに、周囲の反応やヒル魔の冷ややかな言葉などまるで聞こえていないとでも言うかのように、濃いグリーンのアイシールドを付けた少年は、今度ははっきりと、ヒル魔の声を遮った。

「いや、その…抜けそう、かもしれないんです。進さん」

 振り返ったヒル魔に、少年は既にその瞳を俯け、微かに震える己が身体を見つめていた。しかし、途切れ途切れの声は、それでも止まる事なく、言葉を紡ぎ続ける。

 その視線が、真っ直ぐに自分に向けられていない事にヒル魔は疑問を感じてしまった。俯くのはこの少年の常なのに、確かに、その声は、ヒル魔に突き刺さっていたのだから。フィールドに背を向けたヒル魔に、逃げるのか、と問い質しているかの様に。視線までもがそうでない事が、違和感でならない。

「もう少し…もう少しで…」

 まるでトランス状態だ。自らが何を言っているのか、恐らくは正しい意味で理解していないのだろう。これまで、運動など学校の授業以外では不良共の使い走りでしか経験したことのない華奢な少年が、防具の上からでも骨を砕く力を持つ怪物的な男を抜けるときた。

 揺さぶりを掛けるために相手には、アイシールドの素早さをアピールしていたが、ヒル魔は心の奥底の何処かでは、それも無理だろうと考えていた。常識的にどう考えたって不可能だ。それでも試合前に投げ出さなかったのは、相手のデータを実践で手に入れたかったのと、明らかに自チームより上手の相手に選手達がどう動くのか、見たかったからだ。勿論隙あらば勝利を拾えるようなら拾うつもりは満タンだったが、勝利を拾うと考えている時点で、どうあってもその確立がとてつもなく低いことを示していた。

 アイシールド越しの俯いた少年の瞳が、細かく震える手足が、ヒル魔の恐ろしいまでの冷静な部分を焼く。

 今でも、ヒル魔は少年が怪物を抜けるとは思えない。それでも、震えながらも、やるつもりなのだ。この小さな身体の持ち主は。

 ヒル魔の動かない筈の知略が、ぶるりと震えるのを感じる。

 目の前の小さな少年の足を見出だしたのはヒル魔だが、その性格は使い物にならないと切り捨てたのもヒル魔自身が下した判断だった。それがどうだろう、女の影に隠れることに慣れ切って、自らを戦わせることを忘れた筈の少年が、闘志を見せ始めた。

 ヒル魔がこれ以上は見込みのないと捨てた試合を、それでも意味のあるものに変えて見せようとしている。

 アメフトにその身を捧げようとする者の居ない助っ人だらけのチームでは望めなかったものが、ヒル魔の手の中に、急に転がり込んできた気がした。

「勝ちてえのか?進に」

 するりと言葉が滑り出ていた。ヒル魔のその台詞を聞いて、この期に及んで長年の臆病風に吹かれたのか、もぞもぞし始めた少年を一喝して、ヒル魔の頭脳は猛烈な速さで戦術を組み始めた。

 去年の春大会以来、幾つの試合を捨ててきただろうか…次へと繋げるための行動とは言え、試合の為に努力してきた日々も捨てているような気がして、心の何処かが納得しないで燻り続けていたのをヒル魔は自覚していた。

 これからは、そんな試合も無くなる。どんな試合も意味在るものになるのだ。

 そんな予感に、頑強な理性を押し退けて、ヒル魔の感情は震えた。

 

 目の前の小さな少年がいれば、どんな試合も最後まで捨てずにいられる。誰の為でもない、自分の為の努力を自分で殺してきたヒル魔が、この少年によってそれを生かされる。

 自分は、この少年の為に、最後までフィールドに立ち続けるのだろう。

 

 

 長い長い暗闇の先に、出口を示す小さな光を見つけだし、ヒル魔はハドルの掛け声を周囲に響き渡らせた。

 

 

4・再び現在

 

 去年自分のクラスだった教室を見渡して、微かな違和感に、ここは既に新たな生徒達を受け入れたまったく別の空間なのだとヒル魔は感じる。

 現在このクラスの生徒であるアメフト部唯一の後輩は、追い出した訳では無いのだが何時の間にか姿を眩ましていた。命じていた写真整理は終わったらしく、ヒル魔が座っていた座席の後ろの机にこっそりと乗っていた。

 何処かうわの空に見えた少年は、先輩に挨拶すら忘れ、帰宅の徒に着いたらしい。

 しかしヒル魔は、それに付いては責める気にはならなかった。一度『入り込めば』周囲の些細な事はまるきり何処かに飛んでいってしまうらしい事は、先日の試合で十分に理解していた。

 恐らく、あの少年の心は今、次のチャンスで一杯だろう。

 悪くはない。自分の本心にすら素直になれないヒル魔は、心の中ですら少年の姿勢をそう評する。

 何事にも如才ない優秀な脳には珍しく、つらつらと意味もなく、初めて出来た後輩の事を考えていたヒル魔は、雨に煙る灰色の視界の端に、突如として現われた白い点に、窓の外に気を引かれる。

 校庭を見下ろせるその窓からは、先程まで考えていた後輩の姿があった。

 どろどろの身体は、距離があるせいで、何時もよりずっと頼りなげで小さく見えた。それなのに、ヒル魔の脳裏にはある言葉が浮かんで消えることはなかった。

 『打ちのめされたことがない選手など存在しない。ただ、一流の選手はあらゆる努力を払い速やかに立ち上がろうとする』

 小さな少年が雨の中、必死にステップを踏む様は、まさにその言葉そのままの姿に見えた。

 

「糞デブ、今日はもういいぞ。続きは明日の朝、改装の終わった部室でやる。解散!」

 その言葉だけを残し、ヒル魔はTVの前に広げたビデオデッキを片付ける様子を見せず、教室からさっと出ていった。

 後に残された巨漢の人物は、そんなヒル魔の様子に動じる事もなく、穏やかな顔つきのまま、後片付けを始める。

 長い付き合いの友人が、対戦校のスカウティング作業の途中で、意識を何処かに散らしていることにすぐ気が付いた。今までにそんな経験は滅多になく、一体何事かと驚愕したが、その遠くを見つめるような視線を追って理解した。

 そこには、泥門アメフト部創部以来からの長い冬の中、漸く手に入れた若い芽が、雨に濡れながら、ラダードリルを踏んでいる姿があったからだ。

 ああ、彼を迎えに行ったんだな。

 ヒル魔の悪業を知る、他の人物が聞いたら驚くような事を、さらりと考えた。

 総てをアメフトに注ぎ、誰よりも身を粉にしていたヒル魔がようやっと手に入れた、泥門デビルバッツが翔び立つ為の大切な足を、その人物ごとすべてを慈しんでいることを、栗田は敏感に感じ取っていた。むしろ、ヒル魔自身よりもその事実を、優しい巨体の持ち主は知っていた。

 ヒル魔は彼自身をよく知らない人物には分からないかもしれないが、アメフトを真の意味で他人に強要した事は一度も無かった。

 確かに試合時に使える人物を脅迫して無理矢理試合に出させる事はする。けれども、それだけだ。その人物が他の運動部に所属していようが帰宅部であろうが、普段の練習にまで付き合わせる事は決して無い。本当の意味でどんな手段を使ってでもアメフトの試合に勝利したいのならば、普段からの練習にも脅して付き合わせた方が、格段にその確率も上がる。それでもヒル魔はそれをしない。出来る力を持っていても、だ。

 随分受け身的な、興味を持ってもらえるとも分からない、確率的に低い草の根運動的なアメフト普及の宣伝に、その身を費やす日々。それも激しい練習を欠かさずこなしながらだ。

 栗田は、ヒル魔がそれをしない理由が、痛い程判っていた。

 楽しくないからだ。

 本心でアメフトをやりたいと思っていない人物とチームを組んでも、心の底から純粋に、プレーを楽しめないからだ。

 助っ人だらけのチームで散々試合をして、栗田自身、痛い程実感した。

 そのヒル魔が、初めて、本当にどんな手を使ってでも、アメフト部に引き入れようとしたのが、小早川瀬那と言う少年だった。常のヒル魔なら、助っ人と言う形を取る筈なのに、本人のやる気如何に関わらず、身内に引き込もうとした。その事実に、内心栗田はひどく驚いていた。そして、そうやって引きずられた筈の哀れな少年が、強要ではなく、自らの意思でアメフトに引き込まれてくれた事に、恐らく栗田以上に喜んだのはヒル魔自身だろう。

 自分の常スタイルを捨ててまで、手に入れたいと願っていたのだから。

 よかった。本当によかったね。

 じんわりと、小さな瞳を滲ませながら、栗田は大きな背を丸め、散らばったビデオテープをまとめ続けた。

 

 

 

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