走れよ流れ星・3

 

 

5・少し先の現在

 

 ヒル魔は、体育館の床に点々と残った水の跡を眺め、入り口の所に立っていた。

 その腕には、少年が放り投げたらしい紺色の傘と自分の黒い傘、その紺色の傘の下に申し訳程度に雨から庇われていた学校指定の鞄に、ドロドロの大地に投げ捨てられていたブレザー。それに、校庭にポツンと取り残されていたアメフトボールがあった。

 それらをそのまま入り口の床の上に放ると、ヒル魔は外靴を脱ぎ、飴色にトロリと光る床の上に足を触れさせた。靴下なんてものは、履いていなかったので、素肌の足の裏に、ヒンヤリと冷たい温度が伝わる。

 水滴は、点々と体育館倉庫の入り口まで続いていた。薄く開いたその入り口からは、ゴソゴソと物音が微かに聞こえている。ヒル魔が体育館の中心まで歩を進めた時、その入り口からひょっこりと小さな頭が覗いた。

「あ、ヒル魔さん。待って下さい。今、ボールも取りに行きますから」

「いい。それよりこっちこい」

 何時もはぴんぴんに奔放に跳ねている、持ち主の性格とは似ても似つかない髪型が、重たい水滴によりぐっしょりと萎れていた。元は白かっただろうYシャツが茶色く汚れ貧弱そうな薄い身体に張り付いている様は、まるで子犬が雨に濡れ、萎れている姿を想像させる。

 ヒル魔に怒鳴られると思っているのか、少年は怖ず怖ずと、自分を呼ばわった人物の側に近づいて来た。

 ヒル魔はそんな少年の態度には意も介さず、無造作にその縮こまった左手首を掴み、体育館倉庫とは反対側の扉に近づき、ある扉の前でぴたりと歩みを止めた。そして、懐からたくさんの鍵が付けられたキーリングを取り出すと、迷う事なく一つの鍵を選び取り、その扉の鍵穴に差し込んだ。

 カシャリ。

 あっけない音を響かせ何の抵抗もなく開いてしまった扉に、少年が小さく息を呑むのが聞こえたが、ヒル魔は、フンと鼻で息をし、その小さな音を吹き飛ばしてしまった。

「おら、入れ」

「あ、シャワー室…」

「ボイラーはさっき用務員に連絡して入れといた。お湯が出っから、きちんと身体暖めて置け。俺はテメエの着替えを用意してくる。俺が戻るまで、もたもたしてたら、どうなるか…」

 そこでヒル魔は言葉を切り、悪どいと言われる表情で笑ってみせた。少年は小さな身体を更に縮込ませ、邪悪な雰囲気を振りまく相手の脇を素早い動作で通り抜け、脱衣所に駆け込んだ。

 張り付いたシャツやスラックスを苦労しながら脱ぎ捨てるのを尻目に、ヒル魔はシャワー室の扉を閉め、自分の教室に荷物を取りに素肌の足の踵を返した。

 

 ヒル魔が自分の鞄とスポーツバックを持ってシャワー室の脱衣所に戻ってくると、少年はまだ、身体を温めている最中らしかった。先程薄らと垣間見た、若いと言うよりも、幼いと言った言葉がしっくりくる肢体を、目蓋の裏に思い画く。

 あの、何とも頼りなげな身体に、アメフト選手としての一流の匂いを感じ取ってしまったヒル魔は、自分の判断力の正確さを思わず疑ってしまいそうになる。

 それでも、少年に希望の光を強く見出してしまったのは、ヒル魔自身だった。己の力を過信ではなく信じているヒル魔は、その可能性も、あまりに現実性とはかけ離れていると思われても、握り潰してしまう事はしなかった。

 ヒル魔が己の思考の内に沈んでいると、シャワー室と脱衣所を繋ぐ曇りガラスの扉がカチリと遠慮深げに開いた。

 少年が、ボタボタと大粒の水滴を垂らしながら、その扉の前に佇む。ヒル魔はその姿を一瞥して、自分のスポーツバックからタオルを取り出し丸めて放り投げてやった。

 空中でバッと広がって失速した布に、少年は二三歩たたらを踏み、それを受け取る。

「あ、有り難うございます」

「糞チビ、てめえ今日部活の用意してこなかったな。仕方ねえから今日は俺のを貸してやる」

「…………終わりだと、思っちゃったんです」

 タオルを頭に絡め、右目しか覗かせないまま、少年はポツリと呟いた。

 これが、ついこの間まで、アメフトを恐れていた人物がする目だろうか…。ヒル魔はその眼差しに、見覚えがあった。まるで、そう。己が鏡を覗いているかのような既視感。

「アメフト、楽しいか…」

 少年のその目にヒル魔は思わず問いかけていた。少年は、言われた言葉の意味が直ぐには理解出来なかったのか、目蓋をぱちりと瞬かせる。

「アメフト、楽しいだろ?」

「……………楽しいだけじゃ、無いです。やっぱり今も、怖いし痛いしだし、…………それに、悔しい。そう、悔しいんです。負けて。僕、悔しいなんて思ったの初めてで、アメフトをついこの間知ったばかりで、全然弱いのに、それなのに、負けて悔しいんです。楽しいけれど、楽しいだけじゃない。それだけじゃない。僕の身体なのにもう一人の僕が居て、走れって言ってる。アメフトは、そんな感じです」

 少年の焦燥は、ヒル魔にも覚えがあった。じっとしてられない。真夜中なのに今にも走り出してしまいたいような、そんな感覚。ヒル魔は今でもその感覚に身を攫われる。それを楽しむ為、アメフトを続けている。

 少年は、無茶な練習とも言えない行動を叱られると、今でもヒル魔の様子を伺っているようだが、ヒル魔は最初から、少年を叱る気は更々なかった。自分にも覚えがある衝動に、叱る資格が無いとも、言い換えられるが…。

 上手く言葉に出来ない思いに、もどかし気にしていた少年が、あ…と小さく声を上げる。

「好きです。僕、アメフトが好きです。楽しいんじゃない。僕、アメフトが大好きなんです」

 好きです。

 その言葉が、ヒル魔の心の何所かに、カチリと音を立て、はまり込んだ。それが何処なのか、ヒル魔自身にも判断がつかなかった。それでも、身の内を震わせるこの感覚には覚えがあった。

「言う様になったじゃねえか…。上等だ。これから思う存分たっぷりと、てめえをアメフト漬けにしてやるよ」

「あ・ははは…。これから、宜しくお願いします、ヒル魔さん」

 この震えは、歓喜だ。

 ヒル魔は、情けない表情で笑う少年を前に、初めて少年の足を見つけた時の何倍もの歓喜の震えで、身体を満たした。

 動き出した。ヒル魔は思った。自分の止まっていたアメフトが、俺を巻き込んで、この小さな身体が全てを抱えて走り出した。

 ヒル魔は珍しく、自分の衝動に素直に従い、笑みを浮かべた。

 ヒル魔が渡した、少年にはぶかぶかでサイズの全く合わない自分の黒いTシャツを懸命に着込む姿を、妙に可笑しな気分になりながら眺め、喉の奥でクツクツと、声を鳴らし続けた。

 

 

6・少し先の未来に続く現在

 

 ヒル魔はもう自覚していた。動き出したものが、アメフトだけではなかった事を。

 少年は、ヒル魔のアメフトだけではなく、気持ちすら攫って、走り出していた。

 ヒル魔は、少年の足だけではなく、全てを愛おしいと思うようになっていた。

 しかし、それでいいのか。小さな身体の少年に、全てを預けて走らせるだけで、己は満足出来るのか…。ヒル魔の本能は、それでは満足しないと、叫んでいた。ヒル魔はその叫びを無視する事が出来なかった。覚悟が決まってしまったから。

 そこで、ヒル魔は勝負をする事を決めた。ヒル魔の全てを攫ってしまった少年と、勝負する事を。

「セナ!」

 目の前で、小さな身体の少年───セナは、ヒル魔の呼び声に驚いた様に振り返った。

 四月の意外と強い日差しに、ヒル魔が着せてやった主務の文字が浮かぶ白いTシャツが、眩しい程光を反射していた。

 ついぞ名を、ヒル魔にまともに呼ばれた事の無かったセナは、何事が起きたのかと、大きな瞳を見開いていた。

「セナ、俺はてめえが好きだ!返事は今は聞かねえ。俺と、タイマンで勝負しやがれ。お前のその自慢の足で、俺から逃げ切ってみせろ。そうしたら、お前の返事を聞いてやる。誰にも捕まえられない筈のその足で、俺に捕まったら、そん時は、てめえの返事は聞いてやらねえ!!この意味、判るな?」

 がっちりと、先程の表情のままセナは固まっていた。まだ、ヒル魔の言葉はその脳には浸透していないようだ。

「真剣勝負だ。俺も、この身体一つで、挑む」

 ヒル魔はそう言い放ち、何処から取り出したのか、沢山の携帯電話と、銃火機の類いを、次々と足下に投げ捨て、あっという間に危険な山を築いた。その上に、最後に、黒い小さな手帳を放り投げる。脅迫手帳と、ヒル魔独特の細い角張った文字で書かれた、ヒル魔の最強の武器だった。

「制限時間は…そうだな、今日の日没までだ。それまでに俺に捕まらなければてめえの勝ち。俺が捕まえたら俺の勝ちだ!」

 ───ザァア・アァ‥ア…………

 二人の間に、春も盛りを越え青葉の息吹を色濃く纏った強い風が吹き抜けた。

 

 

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