チョコレートスマイル2

 

 

「う〜す…」

 ノソリと、古ぼけた鴨川ジムの扉を、頭を屈めて入って来た大男の姿に、ジムのあちらこちらから挨拶が返ってくる。その声に適当に返事を返しながら、いつもなら直ぐすっ飛んでくる元気の塊のような声が聞こえない事に、鷹村は物足りなさを感じた。

「おう木村〜一歩の奴はまだかよ」

 ジムの奥の方にある鏡の前でシャドウしていた木村は、鷹村の声にああ、と身体を止めて振返った。

「一歩なら さっき板垣と一緒にロードに行きましたよ」

「ふん、そうかよ」

 何気ない風を装っていても、鷹村の機嫌がひとつ下がった事に気が付いた木村は、何気ない動作で距離を取る。

 鷹村はそのままのしのしとロカールームへ歩を進めて行く。確かそこには青木がまだ居たはずだ。

 これから上がるでろう踏みつぶされた蛙のような悲鳴を予感しながら、木村は溜息を吐く。このジムのムードメーカ及び精神安定剤がいないと、本当に分かりやすいくらいに鷹村の情緒は下降の一途を辿る。

『何しやがんだ!このヤ…!!!ふぎゃあぁああぁあ………』

 あ〜あ一歩、あの悪魔が青木に飽きて、周りに手を出し始める前に、帰って来いよ…

 聞き苦しい断末魔を聞きながら、木村は窓の外のいやに青い空へと遠い視線を送った。

 

「戻りました〜」

「外はすっごくいい天気だったのに、寒かったですね〜先輩」

 むさ苦しいジムが一気に若々しい雰囲気に包まれる、元気のいい声が響き渡った。傍から見れば、仲の良い学生達に見える一歩と板垣に、ふらふらと近寄る黒い影がひとつ…

「お〜う…お前ら、何を手に持ってるんだ?」

「あ、青木さん……?!」

「青木さん、それどうしたんですか?何だか随分楽しそうですね」

「何が楽しそうだ、板垣ィ〜?!これはなあ、あの悪魔がお前のニヤけた面が気に入らんとか何とか訳の分かんねぇいちゃもん付けて来た理不尽の結果だ!!ちくしょ〜!!!」

 があ、と牙を剥いて捲し立てる青木の両目の周りは、青黒く痣が出来ていて、まるで出来の悪いパンダメイクのようだった。いくらにやけた目が気に入らないと言っても、痣が出来るまで小突くのは危険では無いだろうか…?だが所詮俺様な人物にその事を注意しても、効果は無いだろうが。

 青木の顔に出来た痣に吃驚していた一歩は、理不尽と聞いて、己の手に持っていた物の存在を思い出し、キョロキョロと背の高い人の姿を探す。

 そんな一歩の傍らで、青木と板垣の愉快な会話は続いていた。

「で?それは何だよ?」

「これですか?先輩と一緒にロードに出たら、ファンの子が待ち伏せしていて…バレンタインのチョコレートですよ」

 それでチョコを持って走る事は出来無いから引き返して来たんです。と、一寸困り顔で笑ってみせた板垣は、いかにもこの手の贈り物を貰い慣れている感が漂っていた。

「何?そんなおいしい事が?!」

「何言ってるんですか〜青木さんはトミ子さんからたっぷり愛情こもった物を貰ったんでしょう?」

「もちろんだ!!」

 そう言って青木は大きく胸を逸らしながらでれっと表情を崩す。その顔を見て、板垣はだからあの人に殴られたんだろうな〜と容易に想像がついた。

「だがソレとコレとは別だ。お前はこのジム入って、初めてのバレンタインだから知らないかもしれないがな〜」

 そこまで青木が喋った時、ぬっと太い腕が現れたかと思うと、キョロキョロしていた一歩の後頭部を鷲攫みグルンと振り向かせた。

「わ?わっわ!」

「おう、お前何持ってやがんだよ?」

「あ!鷹村さん、これ、鷹村さんに」

 振り向かされた先にあった、大きな肉壁に向かって一歩は手に持っていた高級そうな黒の紙袋をさっと差出した。

 旋毛を向けて、己の顔を一瞥しようとしない後輩の態度に、鷹村は片眉を上げて口をヘの字に曲げる。

「む?何だよこいつは?」

 中身は分かっていた。そして、一歩からの物でない事も、相手の不自然な態度で分かっていた。先程から視線を合わせようとしないのが何よりの証拠だった。もし、己に自分からの物を渡すとしたら、この何処までも真っ直ぐな相手は、ひどく恥ずかしそうにしながらも、きっと正面からぶつかってくるはずだと鷹村は信じていた。

「あ…あの、ファンの方が鷹村さんにって………」

 やっぱりな、と鷹村は思った。俯いていて表情は分からないが、紙袋の紐をぎゅっと攫んだ指が白くなっているのを見て、そんなに複雑な心境になるのなら、受け取らなければいいじゃねーかと心の中で相手を扱き下ろす。だが、それを出来る相手であったなら、自分はこんなに気に掛けもしなかっただろう事は明白だった。

 如何して、こんなうじうじ君が気になるかね〜話す事と言えばボクシングばっかりで、特に何の面白味も無いがきんちょだ。だが、どうしても放っては置けないのだ。

「いらねぇよ。ジムの奴らにでも放っとけ。ついでにジムに届いてる奴も一緒に配っちまえよ」

 もてない奴らばっかりだから、ハイエナのように群がるだろ。そう言って鷹村は鼻の頭に皺を寄せてフンと息を吐いた。

 その台詞に驚いたのは一歩よりも先に青木だった。

「何だって?!毎年毎年理不尽に、バレンタインにされた貢ぎ物の数を無理矢理競っては、食べもしない物を嫌味たらしく自慢し回って、中も確認せずにジム中にばら捲いては、中に入っていた手紙を発見して更に怨念の底に突き落としていたあんたが、数も確認せずに?!つうか、やっぱり中の手紙は確認せずかよ?!」

 過去に何かあったのか、何処にツッコミを入れたいのか良く分からない青木の嘆きに、ああそれは嫌だろうなと、板垣は思った。

 これで青木がチョコレートに執着していた理由も分かった。それにしても、ボクサーだから甘い物を食べないのは良く分かるが、一緒に入っていた手紙すら読まないなんて、何て女性に対して失礼な事をする人だ〜さすが理不尽大王、と板垣は妙な納得をしてしまう。

「どうしたんだ?天変地異の前触れか?!槍が降ってくるのか?!」

「ほほう…先程の可愛がり方じゃ足りなかったみたいだなぁ」

 ニヤリと実に嫌な笑みを浮かべて鷹村は指をゴキンと鳴らす。青木はあっと思った瞬間には素早く駆け出していた。

 どうせ逃げても必ず捕まるのになぁと思いながら、妙に静かな一歩に板垣は顔を向けた。

「先輩?どうしたんですか?何かボウッとしてますね」

「え?い、いや別にそんなんじゃ………これ、どうしよっか」

 何だかぼんやりとしている一歩に、板垣はそんなに鷹村のあの言葉が珍しかったのかと勝手に納得し、きっと心優しい先輩の事だから、実際に渡そうとしていた本人の顔を知っている問題のチョコレートをどうすればいいか迷っているんだなと思った。

 何よりも、一歩にチョコレートを託した時の女性の可愛らしい必死さに、板垣は本人を知らないって不幸だ…と失礼な感想を抱いた程だ。

「あの、じゃあ、僕が貰ってもいいですかね?」

「え?」

 板垣は何も鷹村のおこぼれに授からなくとも、きっと恐らく沢山のチョコを貰えるはずだろう。意外な提案に一歩は驚いた。

「僕が甘いのも好きだって知ってますよね?毎年この日は僕にとって、1年のお菓子を手に入れる絶好のチャンスなんですよ〜」

 それに細かい事に目を瞑れば、先輩からチョコレートを貰えるし。と心の中でこっそり呟いて板垣は満面の笑みを浮かべた。

「そ、それじゃあ」

 はい、と多少の後ろめたさを感じるのか躊躇いながらも、一歩は板垣に黒い光沢のある紙袋を差出した。

「いたがきま〜す」

 力の抜ける台詞を言いながら板垣は上機嫌だ。

 その様子を黙って縄跳びをしながら静観していた木村は、何だかな〜と思った。

(まあ、一歩が居ても居なくても、結局は青木の断末魔を聞く羽目になるのは変わらないって所か)

 木村がそう思ったのと同時に、本日2回目の蛙が潰された時のような断末魔がジムに響き渡った。

 

 

 

 

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